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『短歌往来』2021年9月号

①加藤治郎「師弟対談」〈「一体、文語体と口語体という風に分けられるものなのか」と岡井隆は講座の案内文に記している。〉この問いに対する岡井自身の答えは、ここには書かれていない。しかし少なくとも岡井は、文語体と口語体を区別することを疑問視したのだ。勇気づけられる。

②加藤治郎「師弟対談」〈荻原作品は口語文体というインフラがスーパーオノマトペ・表記的喩といったニューウェーブのレトリックを可能にしたことを示している。文語体には馴染まないレトリックなのだ。〉加藤の見解は、『歌壇』で中津昌子が引用した岡井隆発言と食い違う。

 『歌壇』の永井陽子についての文で中津昌子は〈岡井隆『現代百人一首』においては(…)「『べくべから』は、荻原裕幸の『ポポポポポ』に通じるようなスーパー・オノマトペを先取りする見事な一首だったと思う」と書かれている〉と述べている。先取りしたというより、単に永井の方が早かった。もしかして探したら別の作者のもっと早い時期の早い作品があるかもしれない。どちらにしても文語体口語体とは関係無い話だと思う。
 まず最初に述べられているように、岡井が文語体口語体を分けることに懐疑的だった、ということに立ち返って考えればいいのではないだろうか。

老い坂は下りならんよたらたらと生きつつ少し加速度がつく 桑原正紀 「下り」は楽だということと下降することとの二重の意だろう。「たらたらと」に実感がある。山道を下っているとだんだん加速度がついて自分で止めにくくなる。そんなところを上手く比喩にしていると思った。

④持田鋼一郎「枕詞はなぜ意味を失ったか」〈原田(大六)はまず「あかね刺す」は(…)「茜」から作った顔料を水に刺すとまたたく間に無色の水がすみずみまで赤色に替わるのを、日の出によって空が瞬時にすみずみまで明るくなるのに喩えたものであると解釈する。〉

 枕詞の意味。確かに何の意味も無い語が他の語を導くというのは不自然だし、意味も分かるようで分からないと思いつつ、追及すること無く「ここ試験に出ます」的に丸覚えしている。こうやって語源の説を聞くと面白いし納得がいく。なぜ枕詞の意味が分からなくなったかも論じていて、さらに興味深い。

2021.10.9.~11.Twitterより編集再掲