評論を評する(後半)【再録・青磁社週刊時評第三十七回2009.3.2.】
評論を評する(後半) 川本千栄
「短歌人」3月号の時評「評論と評論風文章と」(内山晶太)も同じく評論を評する姿勢で書かれた文章である。〈…歌壇全般において言われている「評論」というものが、果たして本当に評論なのか。結論を言えば、「評論風文章」が「評論」の中に相当数まじっているのではないかとつねづね疑いを持っている。〉という内山の疑いには私も全面的に賛成である。内山は、問題になるのはまず、評論の中で使われる語、例えば「私性」という語の定義がきちんと位置づけられないまま使われている点だと指摘する。また〈評論には評論の型というものがあるらしい〉と述べた後、その型に当てはめて評論風の単語を定義も曖昧なままに代入することによって完成する評論を批判している。
短歌評論に使われる用語の定義が曖昧であるという点については私も問題だと思っているし、例えば「ポスト・ニューウェーブ」などという用語は使うべきではないという提案もしてきた。だが、評論には評論の型がある、というあたりは内山の指しているものがよく分からない。今回の内山の時評には、具体的にどんな評論が、という例が無く、読む人によってはイメージするものが異なることもありうるだろう。しかし、先の佐藤通雅による「評論月評」欄の新設と同じタイミングで内山が、短歌の評論をどう評するかに問題提起をしたことは重要だ。評論に対する評価が必要だと思っている者はまだまだいるという事だろう。内山には具体的にどのような文章を念頭に置いているのかをどこかで挙げて欲しいと思いつつ、この指摘は歌壇全体に対する大きな課題を与えてくれたものだと考える。評論は書きっぱなし、読みっぱなしではなく、どこかで論じられ問題を共有しなければ歌壇全体においても損失なのだ。
そんな評論に対する評の一つとして、私は今回、森井マスミの『不可解な殺意』を挙げたい。二〇〇四年度の短歌研究評論賞を受賞した「インターネットからの叫び」を含む意欲溢れる評論集である。森井の特徴としてはインターネットやライトノベルなど現在の文学や社会状況を考察して短歌の問題を読み込んでいくといった、現代の突端に位置するような文章を得意とする点と、塚本邦雄・菱川善夫の業績の分析を継続的に行なっている点が挙げられるだろう。それらももちろん読み応えがあるが、塚本邦雄・菱川善夫だけにとどまらない前衛短歌の見直しを行なう力量を持った評者だという点を推したい。この評論集中特に面白いと思ったのは〈短歌史における前衛短歌―折口信夫『女流短歌史』を軸に〉、〈「自己なき男」の饒舌―寺山修司と「われ」〉、〈ジェンダーのかなたに―馬場あき子、山中智恵子と斎宮〉の三篇である。これらはいずれも前衛短歌に関わる論であるが、韻律・「われ」・ジェンダーなどの切り口で論じられており、森井の知識の豊富さと論点の鋭さが光る。前衛短歌をより広く、深く見直すための期待の論者が登場したという印象を受けた。
了(第三十七回2009年3月2日分)