『歌壇』2022年3月号(1)
①特集『東日本大震災と詩歌』を読む 俳人高野ムツオ、歌人本多一弘、詩人平田俊子、柳人高鶴礼子の座談会。短詩型の豊かさと機会詠としての役割について考えた。
本田一弘〈「土地から言葉が生まれる」ということも考えると、方言は土地と結びついているので、それを詩にするのはとても重要な意味があると思っています。標準語では自分の思いを伝えられない。(…)名前がないというのもまた、すごくいい。誰が、ではなくて、土地全体で話している。それは今生きている私たちだけではなく、亡くなった人からずっと受け継がれて、その土地で愛され、話していて、人とのかかわりの中で作っている。そういう言葉を詩に入れ込むのはとても大事なこと(…)〉方言を短歌に入れるのは難しいと個人的には思うが、本田の意見は説得力がある。
②かなしみの遠浅をわれはゆくごとし十一日の度(たび)のつめたさ 斎藤梢
本田一弘〈この「われ」は、自分だけではなく、体験した人すべて、あるいは体験しなかった人も含めてだと思いますが、心が冷たくなるんだよと。〉「われ」が「われわれ」を表す。本田の読みにうなずく。
③高野ムツオ〈発句から出発した俳句と前句付から出発した川柳との違いかもしれません。〉これは自分用のメモ。
④高野ムツオ〈あと、言えることは、最初から俳句は伝達することをあきらめている。〉 高鶴礼子〈えッ!!そうなんですか。〉 えッ、そうなんですか。短歌は伝達したがりまくっていると思うのは私だけ?俳句との何という違いか。俳句を読む時は心しよう。
⑤高鶴礼子〈人にとっては、自分が目にしたこと以外は見え難いわけですが、ひとりひとりが、いろいろな角度から、いろいろな境涯にいる「今、ここ、私」を書いて、刻むということ。これはとても意義深いことだと感じます。〉同感する。詩の形式に関わらず。
今回この特集で挙げられていた川柳が結構好きだった。また機会があれば読んでみたい。
⑥第二十二回現代短歌新人賞決定発表 今年から『歌壇』誌上で選評を読む事ができるようになった。今年の受賞作は山木礼子『太陽の横』。御受賞おめでとうございます!『短歌研究』の連載時から子育ての歌がいいなあと思っていた。十首評も書きました。
私が一番好きな歌はこれ。
生きることの目的は生き延びること床からひろつた服なども着て 山木礼子
⑦吉川宏志「かつて『源氏物語』が嫌いだった私に」〈物語の中では美しく描かれていますが、(光源氏は)相当にひどい人間なんだということを、ときどきは思い出す必要があります。〉朧月夜との話。源氏のひどさ、うん、大丈夫、忘れてない。ときどき思い出す、というより、ずっと思って読んでいる。今回も相変わらずひどい。
小説は色々な登場人物に感情移入して読めるが、色々な視点がある。しかしやはり歌はその人のものでしかない。その人になって歌を詠むというのは源氏物語の頃はよくあったのだろうか。それとも紫式部が巧みなのか。和歌と短歌の違いもあるのだろうか。
今回の朧月夜の歌や源氏の歌を読むと、なるほどと思う。吉川の訳も分かりやすい。前回の末摘花の歌はわざと下手に作っているのが現代の目からも分かるし。1970年代に流行った「成り代わり」の元祖は紫式部かも知れない。
⑧中西亮太「歌人斎藤史はこの地で生まれた」〈これは瀏なりのモダニズム短歌だったと見てよいだろう。(…)1928年の時点では、歌壇のモダニストたちはまだ同時期の無産派ほど活発な動きは見せていなかった。(…)ちょうど同じ頃の話だが、北原白秋系の歌誌『香蘭』に近代主義風の歌が載るようになった。(…)両者の時期の一致にも何か意味があるはずだ。ちなみに、『香蘭』の中堅や若手が新芸術派を標榜し、そこに前川佐美雄が合流するなど、歌壇のモダニストの活動がにわかに活発になるのは翌年以降のことである。〉斎藤史の父、斎藤瀏の短歌をモダニズムの観点で捉えているのは面白い視点だと思った。中西自身が、瀏の歌集『波濤』の中で五首のみというぐらいレアなもの。斎藤史の短歌を考える際、瀏の歌というのは案外抜けている観点なのかもしれない。
2022.4.3.~7.Twitterより編集再掲