「主宰の定年制」に思うこと(後半)【再録・青磁社週刊時評第四十回2009.3.23.】
「主宰の定年制」に思うこと(後半) 川本千栄
『短歌現代』3月号の「俳壇」欄でも村上鞆彦が「若手と結社」の関係について述べている。それによると、最近、若手と結社への言及が俳壇においてよく目につくらしい。このテーマは目新しいものではないが、言及が増えたのは、結社に拠らない若手の活躍が目立つことが一因らしい。「彼らは無所属という立場を積極的に選択して、自由な活動を続けている。おそらく彼らの目には、束縛するものとしての結社の一面がクローズアップされて映っているのであろう」と村上は述べる。しかし、その一方で結社に属する若手も多く活躍しているらしく、「おそらく彼らは結社を束縛とは捉えずに、逆に自らの拠って立つ土壌として、そこから養分を着実に吸収しているに違いない」と考察している。
実に歌壇にも当てはまる状況分析だと思う。ただ、俳壇にしても歌壇にしても、結社のどういう部分が、なぜ束縛と感じられるのかを具体的に考察しないと解決には繋がらないだろう。村上の文には「指導者や構成員の高齢化、風通しの悪い閉鎖性、師弟関係という因習」が挙げられていたが、高齢化以外は若干抽象的だ。具体的な「高齢化」に対しては「主宰の定年制」などの具体策が出てくる。件の新聞記事で長谷川櫂が「とにかく『まず隗(櫂)より始めよ』ということで」などと述べていたが、どのぐらいの結社が同様の策を取るかはわからない。わからないが、策を立てられるということがまず大切なのだ。
結社には正の側面も負の側面もある。結社内部に長期間いると、次第にどちらの面に対しても感覚が鈍くなってくる。そのため結社内部にいる者こそ、常に時代や状況を考えて、結社という制度の問い直しをする必要があるだろう。そうでないと、本来あったはずの良い面すら徐々に機能しなくなってくる。これは結社対結社とか、結社対無所属というレベルの話ではない。結社の活性化は、最終的には、ジャンルとしての魅力をどう打ち出すかという問題に繋がっていくことだと私は考えている。
(了 第四十回2009年3月29日分)