生活から詠む社会詠(後半)【再録・青磁社週刊時評第七十二回2009.11.24.】

生活から詠む社会詠(後半)  川本千栄

 刀根清水が自分の作品について発言した後、二人の歌をどのように読んだかを棚木が発言した。作者が元々持っている資質に多文化の問題が引き寄せられている、外国籍の人の心理に同調するものが作者の内面にあるのだ、という棚木の分析は頷けるものであった。
 社会詠というのは何であるかという定義には数々の意見があるだろうが、私は、自己の生活の中で社会と接している部分を詠うのが、最も社会詠本来の在り方なのではないかと思っている。テレビや新聞のニュースに反応して作った時事詠は、社会詠とは微妙にずれるように思うのだ。そうした時事詠の場合は、詠む方には直な痛みが無い。やはり本人が何らかの痛みや喪失感を抱えて詠わないと読む方にも感情が伝わらないのではないか。清水の歌集を読んでみると、初期の歌にはニュースを見て作った歌が幾つもある。例えば、先に挙げた「回覧板…」の歌と近い制作時期に、えひめ丸事件を詠った連作で「あかつきに冷たき舳先(みよし)さらしゐむ宇和島水産高校えひめ丸」などの歌があるが、前者は押し寄せる異文化という素材を通して、人間の持つ保守性や偏狭さが浮き彫りになっており、後者の歌とは格段に違う迫力を持っている。
 ただ、そうした生活に密着した素材の場合は、素材に頼りすぎると「社会問題提起としては良くても、歌としては良くない」という事態に陥ることもある。修辞も含めて、「いかに歌にするのか」という問題を並行して考えていかなければならないだろう。

(了 第七十二回2009年11月24日分)

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