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『ねむらない樹』vol.6 2021年2月(1)

①ずっと読もう読もうと思いながら、文字の量にビビってなかなか読めなかった『ねむらない樹』。6号から読んでみた。1~5号も読もう!

月の夜の白い砂丘を閉じ込めた塩のボトルが卓上に立つ 嶋稟太郎 とても静謐で美しいイメージ。ただ卓上に塩の小瓶があるだけなのに、そこに月夜の砂丘が広がっていく。砂丘は広大なのだが、それを「閉じ込めた」という表現に、主体の閉塞感がかすかにあるように思う。

生活はすぐに慣れるよ水鉢の金魚が円く泳ぐみたいに 手取川由紀 もし形の無い水の中にいたら自由に泳ぎ回っただろう金魚。だが円い水鉢に入れられたため円く泳ぐしかない。そんな風に人間も環境に慣れて生きるしかない。それが生活するということ。少しの傷ましさがある歌。

あなたがここにゐたりゐなかつたりしてる現象が幻肢痛つぽくてな 佐原キオ 幻肢痛という語が短歌の中で新鮮だ。切断したはずの肢が痛むという、辛い病気。「あなた」が主体のそばにいるという現象が安定しない。いたりいなかったり。いる時があるからこそ、不在に苦しむ。

秋のなのはなばたけなにひとつない月の時間に澄んでいく耳 夜羽ねむる 上句の句割れ・句跨りに「な」音が効果的に絡む。ひらがな書きも相まって陶酔的なリズムを作っている。河野裕子の「菜の花」の一連を思い出す。秋の夜の何も無い菜の花畑に月が照り、静かさに耳が澄む。

魚のなか仮に置かれていた骨を抜いては皿へまた仮に置く 平川綜一 魚を食べているだけなのにドキッとする。骨は魚の身体の中に「仮に」置かれていた、という把握が特異。捨てる前に皿に仮り置きするのは普通のことなのだが。我々の身体の一部も皆死ぬまでの仮り置きなのだ。

⑥「選考座談会」千葉雅也〈一首の中でのある種のトートロジー、同じ言葉を二つ使ったり逆転させることで自ずとリズムが得られるということもそうなんだけど、〉〈何かある一つのものが割れるというか、一つのものの自己の自己に対するずれによってそこから他者性が析出してくるみたいな、そういうことをたぶんやりたいんですよね。(…)主語を二回使ったりとか指示語を二回書いたりとかして、セイムネスのすごくベタな実現なんですよ。〉とても用語は難しいが、最近の短歌ではよく見る技法かも知れない。結構そういう歌が好きだったりする。ちょっと調べたい。

大丈夫と言うしかなくて結局は大丈夫だった日々があるのみ 小島なお (この歌にも同じ語が繰り返されている。)大丈夫?と聞かれたら通常は大丈夫と言うしかない。結果的に大丈夫だった日々があるのだが、そうでなかった可能性もある。ただ偶然今日まで大丈夫だっただけだ。

2021.3.2.~5.Twitterより編集再掲