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『現代短歌』2023年7月号

受け皿にこぼれるほどの水を与え、水は捨てたり教育のように 大松達知 前の歌ではドラセナに水をやっている。四句目まではその様子で、結句が四句の動作に対する比喩。教育のように水を捨てるという強烈な「のように」。だがこれは比喩と対象が逆転もしていて、水のように教育を捨てる、ということも言いたいのだと思う。だから四句目までは水遣りの動作なのだが、三句目で読点が入っているのだろう。湯水のように、という日本の古典的な比喩も思われる。一首前の歌も同じように三句で読点が入っているが、下句が教育の喩なのだと思う。
 一首前の歌
しょぼしょぼと水をやってるドラセナの、育てていない育ってはいる 大松達知
 ドラセナが別名「幸福の木」だと検索して知った。でもこれは読みには入れなくていいと思う。

死ね死ねと言って消しゴム投げつける娘に慣れる、人間すごい 大松達知 反抗期の娘。投げてくるのが消しゴムでどれほど気合いが入っているか不明だが、最初は心を抉られたはずだ。しかし度重なるゆえに慣れた。そんな自分をあきれ気味に客観的に見つめている。
 やはりこれを個人的な感慨に収めずに、「人間」全体に敷衍するところが大袈裟でユーモラス、そしてそれは短歌の「軽み」に通じてると思う。今、自分は大変だけど、みんな通る道だよね、的な余裕が感じられる。

四人いてちょうどよかったと君の言う四人目生れて十五年目の春 永田淳 「君」に敬服する。四人って大変だと思うのだが、「ちょうど」とはどんな具合か聞きたくなる。きょうだいがいることで子供の世界が広がり、親も余裕が持てるのだろうな。推測ですが。

家で見する軽さは嘘かベンチから図太き声に指示を出す見ゆ 永田淳 末っ子のバスケの練習試合を見に来た主体。家で見せる姿とはずいぶん違う顔をしている子。チームメイトに指示を出す声の太さにも驚く。子の成長に驚く時のうれしさと寂しさが感じられる歌。

ゆるゆるに束ねてしまった段ボール回収されゆくゆるゆるのまま 川島結佳子 「しまった」だから今回だけのことで、いつもはきつく束ねられるのだろうか。束ね方がゆるいと自分がゆるいような気分になる。そのまま回収されてゆく自分のダメさ。繰り返し音に脱力感。
 段ボール、私はいつも絶対きっちり束ねられない。インスタの動画とか見ながらやってもダメ。玄関の内側で束ねて、ドアを開けて玄関の外に出した時点でもうゆるんでる。毎回、業者さんごめんなさい、と内心呟いている。

このまま歩き出しそうなほど揺れている深夜の脱水にて洗濯機は 川島結佳子 上句の比喩に実感がある。深夜に回すと、脱水ってこんな大きな音したっけ、と慌ててしまう。でも今更止められないので腹を括って見ていると、上句の比喩が浮かんで来た…というような。

⑦川野芽生「幻象録」
 今回の文は、実際の応募作の歌と、選考座談会の発言とを引いて、丁寧に問題の有り処を解きほぐしてくれているのでとても分かりやすかった。が、同時にとても考えさせられた。私自身が分かってないことがたくさん有るなあという印象を持った。
〈女性全体への抑圧が、「おしゃれ」で「上品」な女性への嫌悪に読み替えられてしまっているのは、やはり一種のミソジニーではないか。〉
 このへん、特に。自分の理解も表面的なものではないかと考えさせられた。女性が持つミソジニーについてもっと知りたいと思う。

2023.6.7.~9. Twitterより編集再掲

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