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〔公開記事〕「作品点描6(し~た)」角川『短歌年鑑』令和6年度版2023.12.

島田修三
ほのぐらき雨降りの脳は想ふらしあはれ滅びるね滅びてしまふね『短歌』5・1
シューベルトの「鱒」きれぎれに聞こえつつ三月あしたの繊(ほそ)きひかりよ「短歌研究」5・5+6
ひとかけらのあはれだになき三年は露地の商ひ半ばを潰しき

 身近な日常を率直に見つめる歌から社会全体を見渡す歌まで、視線の広がりを感じさせる。一首目は日本の滅びを予感しつつ詠う。下句の会話体に達観したような心境がこもる。二首目は聴覚と視覚の両方を使って朝の風景を描く。「鱒」の曲調が一首の印象を統べる。三首目はコロナが猛威をふるった後、市井の商売が破壊された様相を嘆く。もう取り返しはつかないのだ。
 
島田幸典
青空の底ひに潜み棲むごとし琵琶湖に直(ぢか)に続く平地(ひらち)に「短歌往来」5・3
砂利道に二本の轍白く伸び砂の煙はすでにしづもる
むろん身体髪膚にあらぬ端末を置き忘れたる部屋に戻りぬ「歌壇」5・6

 確かな描写力で日々の生活を映し出す作品が魅力である。一首目は青空と平地を対比させる。それを繋ぐのが琵琶湖である。琵琶湖に続く地に住むことは青空の深い底に棲むようだと詠う。「潜み」に心の屈託がある。二首目は自転車、三首目はスマホをそれと言わずに描く。自転車の通り過ぎた後に戻る静寂、身体髪膚ほどにスマホを手放せぬ自分に対する苦笑い、どちらも言外から多くを感じ取れる歌だ。
 
鈴木加成太
流星の降る夜降らぬ夜 筆箱のなかの草地をジョバンニが駆ける「短歌研究」5・5+6
目つむるは秘儀のはじめと思うかな紫陽花いろの仮眠室にて
青年心平蛙の国へ号外を撒きにゆく沼の星畔の星

 日常と幻想が何の違和感も無く交じり合う作品世界。作者の持つ詩性の高さが歌を単なるファンタジーにしない。一首目、筆箱を開けた時に、今いる場所から草地へと心が飛翔していく。そこでは流星を待ちながら駆けて行くジョバンニに主体も憑依する。二首目、眠ることは秘儀でもあり、他の世界を垣間見ることでもある。三首目、蛙の詩人と言われる草野心平。蛙の国へごく自然に入っていく青年心平は主体自身でもあるのだろう。
 
染野太朗
もっと強く怒(いか)らなければ リノリウム光るのに誰一人ころばず「歌壇」5・1
ゆるすという至上の快楽(けらく) 思うより長く続いた皆既月食
あきらめにもつと似てゐたはうがいいシロツメクサのやうに祈りは「短歌往来」5・8

 強い感情、そしてその微妙な揺れが歌に滲む。怒りの感情に囚われるまま、もっと強い怒りを欲している一首目。リノリウムの光る床で誰か他人に転んでほしい。自分の中にある屈託が他者に向っている。二首目では皆既月食を見ながら、人を許そうとしている。許すことは難しいが、上手く行けば快楽にも繋がる行為だ。三首目、何かについて祈っている。しかし叶うように祈るのではなく、あきらめに近い祈りがしたいのだ。群れて咲くありふれたシロツメクサの花に祈りが喩えられている。
 
高木佳子
埋めある川のいはれを聞きてをり暗渠となるも赦されざるを「短歌研究」4・10
白きうつは落ちゆけるのち毀るれば部分となりて何をも容れず
墜ちてゆく梅実の黄の濃く匂ひ誰の眼であつたのだらう「短歌研究」5・5+6

 文語体の持つ力強さが一首一首に具現化されている。過去に水害をもたらした川だろうか。今はコンクリートに均され暗渠と化している。しかし、多くの命を奪ったことは赦されていない。二首目は白い陶磁器が割れたことによって用をなさなくなったことを詠う。一、二首目共に人間の喩のようでもある。三首目は落ちた梅の実を人間の眼に喩える。見てはいけないものを見て、落ちた眼なのかもしれない。
 
高島裕
東京に吾子とゐること不思議にて時間空間擽(くすぐ)りあへり『短歌』5・1
木の工(たくみ)めざして妻の行く道に歌しか持たぬわれが付き添ふ 「未来」5・5
あくがれて文に憑かれて上京せしふるさとびとが明治にもありき「未来」5・9

 家族への愛、郷里への愛があふれた歌に惹かれる。一首目はおそらく自らの若き日を追憶しているのだろう。そこにいる吾子に時の過ぎる速さを実感する。二首目は各々目指すものが違う妻への深い愛情、三首目は同郷の明治人への共感が感じられる。「文に憑かれて」はまさに主体自身の状況を表す言葉でもあるのだ。時間の流れの中で自らを見つめる視線がこの歌にも感じられる。
 
高野公彦
ある一瞬一生(ひとよ)が見えて死ぬといふその瞬間に会はず生き継ぐ 『短歌』4・10
折ふしに眼福、耳(じ)福(ふく)われを訪ひこの世に生きてゐるのが至福
戦ある地球のうへに月冷えてゆふがほほどの光をまとふ 『短歌』5・3

 死を意識した歌が目立つが、死への怖れは無く、平明で自然体だ。一首目、死の瞬間はこうなる、という話を信じるでもなく信じないでもなく、その瞬間はまだ訪れていない、と飄々と詠う。二首目、生きているだけでいい、という究極の境地。時々目を、耳を楽しませるものごとが訪れる。それだけでいいという達観した心境だ。三首目、それでもロシアのウクライナ侵攻などの時事ニュースに対する関心は絶やさない。戦いを止めない人間の住む地球とそれを見つめる月を対比させ、夕顔に喩えて美しく詠っている。
 
高橋睦郎
飮食はつまり殺生鳥獸に非(あら)ずんば草木(そうもく)藻(そう)茸(じよう)ころす『短歌』5・1
明らかに世界老いたりいざさらば老い比べせな世界と我と「歌壇」5・3
遺伝子ら乗りこぞるてふ我が船の我やいづこと問ふ我や誰

 哲学的思惟が歌に多く込められている。一首目は初句二句が箴言のように響く。人間として生きる以上避けられない行為が連作の軸となっている。二首目は老いていく世界と老いていく自身を比べる。平常な心で詠い、老いる不安など微塵も感じられない。三首目は自分という存在を遺伝子のレベルで考える。自分という存在を規定するものは何であろうかと読者に問いかけている。
 
高柳蕗子
隷書体の月がかかって黙考は手さぐりラクダの骨のパズル『短歌』5・5
似た人をどんどん融合(マージ)していくと何体にきわまるのだろう人類
でんしんばしらえんとつおはか ひとびとの心の字幕も縦書きの国

 イメージが鮮やかに浮かび上がる歌。一首目は隷書体の独特の字体で書かれた月という文字そのものが、空にかかっているかのようだ。ラクダの骨格を表す立体的なパズルが月と対峙され、その間を主体の黙考が進む。二首目、読者は思わず自分の回りにいる似たタイプの人同士を思い浮かべてしまう。それを考える自分も、誰かと融合されるぐらい個性が無い存在なのだ。三首目、縦書きに特化した日本語が初句二句のイメージで納得される。
 
田口綾子
そのひとをあなたと呼べばそのひとはとほくのはうに笑ひて立てり「短歌研究」5・5+6
改札にあなたは立ちて改札をあまりにとほき場所と思ひぬ
晴れてゐてよかつたけれど雨のなか傘さすすがたも見てみたかつた

 淡い慕情が旧仮名表記と相俟って、端正な印象を与える。一首目の「そのひと」が「あなた」と認識される時に二人の距離感が意識され、それは二首目でより増幅される。どんなに歩いても改札に近づけないかのようだ。三首目では、降らなかった雨と傘をさす姿への思慕が、歌にしっとりとした趣きを添えている。
 
武田弘之
み柩のあまりに軽き先生を友と担ぎて涙あふれつ『短歌』5・1
宮柊二記念館運営に初めより携はり得しよろこびを持つ
勤め終へ都電の椅子に揺られつつ夜学へ通ふよろこびありき

 歌人が結社に属する一つの理由は、尊敬する歌人との師弟関係だろう。一首目からは、師である宮への傾倒と強い敬愛の念が伝わってくる。二首目には、宮の死後、記念館の運営に心を注いだ様子が描かれる。結社には、こうした師への敬愛で成り立ってきた側面があるのだ。また、夜学で学ぶ喜びを詠った三首目からは戦後の生活の一断面が感じ取れる。
 
竹中優子
ひとつ前の電車に乗れず立っている 返事いいひとりに怒りが湧きぬ「現代短歌」5・1
「自分が困るよ」母も私に言ったっけ 憎しみがわらいにかわるときの顔
勝ち負けの気持ちが滲んできて黙る 目の前の器に餃子が残る「短歌研究」5・7

 人の心の微妙な揺れを突いた歌が光る。自他の心の嫌な面、汚い面も踏み込んで詠う。一首目、上句の状況を背景に、下句の感情を描く。時制の扱いが巧みだ。二首目、母の言う「自分」を誰か他人に当てはめているのだろうか。下句で、憎んだまま軽蔑する心理が克明に描かれる。三首目、自分の中の制御し難い感情。誰からも望まれない餃子がその感情に重なっていく。人が見ることを避けがちな感情を掘り下げてしまう気質なのだ。
 
立花開
眼にもラップをかけて野菜室の林檎のかげで眠る毎日『短歌』5・1
髪を轢くように風打つ 知恵を持つ寂しさも捨てる寂しさも嫌「短歌往来」5・7
人以外みな素裸の街のなかナガミヒナゲシが足もとに揺れ

 鋭敏で繊細な感受性と淡い官能が交差する。一首目、冷蔵庫の中で眼を塞いでいる自分を描く。冷えた林檎が自身と等質に捉えられている。二首目、風に髪を轢かれるという把握が新鮮だ。下句の少し甘えた口調が内容の硬さとバランスを取っている。三首目、そう言ってしまえば人も素裸のように感じられる。ヒナゲシが揺れるように主体の気持ちも揺れているのだろう。
 
辰巳泰子
やっぱりつらいな けさの一言逃すまい この子が弱音吐けるのはここ『短歌』5・1
笑まうなら背筋も伸ばせ 春汐の聴かるるこよい鏡みがかん「短歌研究」5・5+6
木蓮は白のはなやぎ私は愚直のままに老いたしと書き

 言葉と自分自身に対する矜持が歌から感じられる。一首目は子の弱音を察知する母の視線。「ここ」は主体の存在する場所であると同時に、子が本質的に安らげる場所なのだ。二首目は自己を叱咤し、自己を映す鏡を磨こうと詠う。「春汐」に明るい希望が感じられる。三首目、華やかな白木蓮と愚直に生きたい自分を対比する。これも自分を真っ直ぐに見つめる、背筋の伸びた歌だ。
 
田中章義
旅に出るとは風になること旋風(つむじかぜ)、疾風(はやて)、薫風、順風、金風『短歌』5・1
道開きの猿田彦の神の笑い声を思いて歩む旅人我は
教室に来られぬ君に語りかけるZoomは今日も洞窟に似て『短歌』5・4

 神話をたどり、歌枕を訪ねる旅を描いた一、二首目。古代に思いを馳せながら、現在の土地の人々と交流する。三首目は居場所を持たない生徒たちのサポートをする様子が描かれる。教室の尺度では測れない彼らの力を引き出そうとする主体の気持ちが滲む歌だ。Zoom画面の薄暗い感じが「洞窟」の語で適切に表されている。生徒の心を奥へと辿ってゆくイメージもある。
 
田中槐
三叉路の広角にある公園の色濃き桜咲くを過ぎぬ「短歌研究」5・5+6
五日分五缶のビール買ひにゆく桜模様のビールを選りて
なんでもまず嗅ぐ癖のあるひとだつたクンッとする顏嫌ひぢやなくて「未来」5・6

数字を上手く使って軽快な詠み口の一、二首目。どうしても桜を意識せざるを得ない季節をさらりと詠む。桜模様のビールを飲みながら、気負わず、普段のままに桜を眺める五日間が予感されて楽しい。三首目は知人の特徴を巧みにスケッチする。嫌いじゃない、という付かず離れずという関係性が心地良い。
 
田中翠香
クリスマスツリーが消えた翌日に門松が立つ場所が日本だ『短歌』5・1
人類と文明のため本年も三が日から職場へとゆく
冷蔵庫の中身を思い返しつつ顧客へ謝罪の電話をかける「未来」5・6

 ピリッと辛口のユーモアを湛えながら、自他へ冷静な批評眼を向ける歌が魅力だ。一首目は日本社会での、経済の名の下に文化が消費されてゆく様子が描かれる。クリスマスツリーも門松も似たような扱いをされている。二首目、他人に奉仕するために自らをすり減らすことを初句二句のように皮肉る。三首目、熱心に仕事をしているように見せかけて、頭の中ではそれ以上の熱心さで献立を組み立てている。みんなそうでしょ、と言う主体の呟きが聞こえてきそうだ。
 
田中拓也
一生の間に人はどれだけの本を読むのだろうか黙して「心の花」5・1
書棚より本を抜き出し並べおり父の遺骨を集めるように
水仙の花咲くように語りだす君の話に相槌を打つ「心の花」5・3

 身の回りの事物をそして人を、心を込め、誠実に丁寧に描き出す。一、二首目は亡き父の書斎を整理する一連より。書棚の本はその人の思考を確かに映し出すものだ。一首目は、読書と人との関係を真っ直ぐに考えた歌。二首目、父の本は父の思惟の証しであり、思惟の遺骨でもある。三首目、職場詠の一連なので、「君」は生徒だろうか。上句の比喩が清楚で美しい。
 
田中道孝
ちがうだろうあなたがさきに逝くなんて川面の風はまだつめたくて『短歌』5・1
長葱が飛びだしているリュックサック背中にせおい自転車を漕ぐ『短歌』5・9
またいつか逢える気がして朧月いつもそこから見ていてくれよ

 会話体を使って軽やかに、また具体を通して確実に日常を描く。一首目は恩のある人が急逝したのだろう。戸惑いが歌に刻印される。二首目は、自分を描くさりげないスケッチ。三首目は、上句で人を思い浮かべたのだろうが、それを朧月に託して語りかける。文体は軽快だが、その底に、もう逢えない人への哀惜に近いものを潜ませる。
 
谷岡亜紀
眼前の虚空の空(くう)を掴みつつ死に物狂いで人は死にゆく「短歌往来」5・5
ぼんやりと雨を見ており亡き人はもう雨の日に傘をささない
死ねばすべて終わるというは本当か航跡を曳き空の船ゆく『短歌』5・9

 ここ数年両親について多くを詠ってきた作者。父の死を詠った一首目。慣用句である「死に物狂い」がここでは力を発している。両親の最期を看取ったことから、死を意識した歌に、ある諦念が感じられる。二首目、下句は当たり前と言えば当たり前だが、そこに儚い悲しさが漂う。三首目、飛行機の航跡を見ながら、地球上の遠い土地へ、また死後の世界へと思いを馳せる。作者の新たな旅が始まる予感を読者に感じさせる。
 
谷川電話
壁の手触りを確かめているんだ思想のマシュマロを嚙みながら『短歌』5・1
三十年前から本として生きるカフカ全集と新たに暮らす『短歌』5・8
コーヒーは暗闇ではなくのぞきこめばわたしを映すゆらめきながら

 一首目、壁の手触りとマシュマロの歯触りのどちらも体感が伝わる。思想もやはり噛みしめているのだろう。上句十七音、下句十四音だが、定型には収まっていない。そのため、上句下句に挟まれた「思想」の語が顕つ。二首目、古本を購入したということを本と共に暮らすという把握で歌にする。三首目、コーヒーの表面に映る主体。暗闇ではないと言いながら、どこか内面の暗さが伝わる。
 
田野陽
厳寒の森には時に冬裂を起す樹ありと聞きしことあり『短歌』5・1
梅の花見に行きたしと思へども足弱くなり思ひ果たせず『短歌』5・4
もの疎きまま裏庭に放置してありし脚立が雨に濡れゐる

 身の不随意を嘆きながら、身の回りの自然や小さな出来事を堅実に詠う。一首目は伝聞だが、冬裂という壮絶な自然現象に対して、わが身に引き寄せて思うこともあったのだろう。二首目、初句を読んだ段階で読者の眼前に馥郁とした香りを漂わせる梅の花が浮かぶ。おそらく主体の心にも浮かんでいることだろう。三首目、放置していた脚立が雨に濡れているさまを見ている。もの疎き、という語が全体に響いていて、物憂い気分が感じられる。
 
玉井清弘
春の野は耳をすませばいずこにも調律さなか絹の陽とどく「短歌往来」5・5
一枚の田の面に張れる夕暮れの水は凸面の鏡となりぬ『短歌』5・8
道のなき岩踏み越えて室戸への修行せし日々空海若し

 四国・讃岐の自然や歴史に対する愛着が作品から滲み出る。一首目、冬から春へかけて植物たちは花を咲かすよう自らの生命を調律している。その様子が四句目に描かれている。「絹の陽」の表現が繊細で美しい。二首目、田にたっぷりと張られた水が夕暮れの光の中で凸面のように膨らむ。周囲の風景を映す鏡となっているのだろう。三首目、空海生誕一二五〇年を記念する「空海」展に寄せる歌。今なお、讃岐の、そして日本の誇る高僧の生涯を敬愛の念を込めて描き出す。偉大な人物の人生に併走するような迫力ある歌だ。
 
田宮朋子
秋三十日(みそか)いとまを見ての柿仕事けふは干柿五十個つるす『短歌』5・1
いつぽんの甘柿の木に千個生りおほかたフードバンクに寄付す
山すそのうすべにいろを梅、桜、桃と見分ける遠景ながら「コスモス」5・7

 情感溢れる豊かな言葉で表現される自然と生活。一首目、連作タイトルにもなった「柿仕事」という言葉に、自然と共に暮らす主体の日常が感じられる。工芸品のような造形の干柿を吊るして、冬を待つ暮らしだ。二首目、自然の豊饒さを現代的な手段で十全に活用する。他者への慈しみあってのことだ。一本の木になる柿の数の多さにも驚かされる。三首目、溜息の出るような美しい風景。寒い土地では梅桜桃が一斉に咲くのだ。その各々を遠景ながらに見分ける。寒い冬の後の贅沢な春の花の宴だ。
 
 〔公開記事〕令和6年度版 角川『短歌年鑑』 2023年12月
 
 
 
 
 
 
 
 

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