角川『短歌』2024年5月号
①四肢、臓器どれも取り換へ至難にて命はいはば一木造(いちぼくつく)り 高野公彦 言われてみれば自明のことだが、言われなければ自覚しない。歯のように、ある程度取り換え可能な治療を受けることによって、我々の意識は麻痺しているのかもしれない。
②特集「当事者性と批評性」
佐藤通雅〈身に負うた惨事を当事者として語り、詠うことはできる。さらに原爆投下者を、また開発に関わった科学者を告発することはできる。だが自分の歌が、そういう告発作品の範疇に入れられるとしたら、それは本意ではないと竹山は語る。当事者としての具象に拠りながら、地上的告発の域を超え、人間そのものの在り方を問う。そしてさらに鎮魂の祈りへむかうこと、〉
竹山広の歌についての論。竹山の歌の真髄を突いている。身が引き締まるというか、私自身が足りないものを教えられる文だった。
③特集「当事者性と批評性」
銃声のひびく映像を再生し再生し誰かを見殺しにしつづけてゐるのか吾は 松本実穂
〈事実は一つと言っても、遠くで眺めるのと近くで見るのとでは見え方が異なってくる。近づいて見えた細部の小さな発見こそが、どのような根拠や立ち位置で批評するかに大きく関わってくるのではないだろうか。〉
報道で接するしか無いことにどのように距離を詰めるか。誰もに課されている問題だと思う。またそうした報道でしか触れようが無いと思っていることが、意外に身近なことに繋がっていることもあるのだ。
④特集「当事者性と批評性」
民衆がただしき斧をもて伐れる一樹断面に腰をおろして 高木佳子
〈報道の質を決めているのは、実は私たち自身の興味それ自体ということになる。〉
ニュースすら需要によって変わるということだろう。歌は「ただしき」に批評性を感じる。
⑤育てたように育つだなんて嘘っぱちと思い来たれどさやぐ麦の子 富田睦子 人口に膾炙した表現でも人を追いつめるようなものはある。上句は親の責任を遠回しに指摘しているようで心がざわつくが、歌全体の調べは明るく、安堵する。嘘っぱち、麦の子、が軽やかだ。
2024.6.1.~2. Twitterより編集再掲