読者とは誰か(後半)【再録・青磁社週刊時評第九十二回2010.4.26.】
読者とは誰か(後半) 川本千栄
ただしそれは、最初に意識する読者と言うべきもので、真の読者として考えているのは、それとはかなり違う。私が自分の評論を本当に読んで欲しいのは、普段短歌に何の接点も無い人々である。短歌と言えば教科書で習った茂吉や牧水の数首しか知らない、興味もそれほどない、そんな人に向かって私は書いている。そして、そんな元々短歌に興味の無い人々が、目の付け所に関心を示し、論理の展開に納得し、短歌の魅力と深さを知ってくれるような文章が書きたい、というのが私が評論を書く目的の一つである。
そのため、評論の文章は、高校生ぐらいの国語力を持つ人なら難なく理解できるように、あるいは自分の母親のような一市民が普通に新聞を読んで理解できるようにあらねばならないと思って私は書いている。私の目指す「分かりやすさ」は、複雑な事象を不用意に単純化することでも、新奇で目を引く批評用語を編み出すことでもない。あくまで文章表現の明晰さである。
それらを前提として、最も大切なのは、論の内容である。細かく言えば、例えば、テーマの立て方、素材の選び方、目の付け所の鋭さ、対象の把握と分析方法の適切さ、時代背景・社会状況に対する理解、思考の深さや広さ、論拠となる資料的な裏づけ、などである。それらが明快な論旨に沿って、説得力ある展開をするように書きたいと思っている。
そうは言っても、現実問題として、短歌に興味の無い人は私の評論など読んでくれない、という事実がある。私のものでなくても総合誌や結社誌に載るような評論を、歌壇外の人が読んでいるとは考え難いのだ。そのため「現実的には」歌壇内に向けて、広坂と同じように「自分と同じような人」を読者に想定して書いていることになるのだが、それで自足していいものかという思いは常に抱いている。
一体、短歌の評論というのは、文学評論として歌壇外に通用するものなのだろうか。結局、仲間にのみ向けて書かれたもので、内輪以外の所から見れば近視眼的で客観性を欠くものになっていないか、というのが私が持ち続けている危惧なのだ。私以外の短歌評論の書き手はその事をどう思っているのだろうか。不安には思わないのだろうか。
かつて1962年に上田三四二の「斎藤茂吉論」が群像新人文学賞第四回の評論部門を、最近では2005年に三枝昻之の『昭和短歌の精神史』が芸術選奨文部科学大臣賞の評論等の部門を、また2008年、穂村弘の『短歌の友人』が伊藤整文学賞評論部門を、それぞれ受賞したように、歌壇の枠を越えて評価された評論(集)は幾つかある。受賞云々のことはおいても、例えば短歌の総合誌に載っている評論が、何かの機会に新聞などに載ったら果たして一般の読者は読んで理解してくれるのだろうか。知的好奇心がかき立てられる、興味深い、と思ってもらえるのだろうか。そんな視点を持って歌壇の評論を考えてみてはどうだろうか。短歌評論が文学評論としての普遍性を持ちえているかどうかは、歌壇全体の問題なのではないかと私は思うのである。
(了 第九十二回2010年4月26日分)