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『歌壇』2023年7月号

傭兵は死者の数には入らざり 劇画でなしワグネル隊長の顔 米川千嘉子 6月25日のワグネルの反乱の後にこの歌を読んだ。7月号の原稿の締切は5月末頃だろうか。作者が反乱を予期していたわけではないが、何かを感じ取っていたのは確かだ。傭兵についての言葉も鋭い。

②『ことば見聞録』岩川ありさ(現代日本文学研究者)×川野里子
岩川〈雨が降っている音でも(…)全然違うオノマトペが出てくると雨の捉え方も変わる。オノマトペは基本的には本当は表せない何かを表そうとするので、そこに可能性を読み取ることはできるんだと思うんです。〉本当は表せない何か、という部分に惹かれる。それが知りたいから文学があるのでは、と思う。

③「ことば見聞録」
岩川〈トラウマは捉え損ねたがゆえに生じるものなので、繰り返し繰り返し何があったんだろうと自分のなかで問い続ける。でも、そうやって繰り返しても摑めないものではあるんです。なので繰り返しどうしてもその言葉に拘るのは何らかの形でそれがその人にとって大事な表現であると思うんです。ただそれが何を意味しているのかが充分にわかるものでもない。〉
 自分で分からないままある表現に拘り続けるということか。

④「ことば見聞録」
川野里子〈文語そのものが今やすべて口語と文語のほぼミックス状態で、常に現在進行形で育っている状態なので、文語対口語という二項対立自体がほぼ意味のないものになりつつある(…)〉
 おー、これって私が『キマイラ文語』で主張したことだ。これが今や一般的な前提になっていると解釈していいのだろうか。だとしたらうれしいことだ。

⑤「ことば見聞録」
川野〈主語の揺れ、人称代名詞の揺れは短歌の揺れそのものだと思います。〉
〈「私」については今すごく多様化していると思います。最近は『新古今』のような言葉が先立つ作品で面白い歌集がでてきていて、そこでは「私」というものがあまり大きな意味を持ちません。消えつつあるのかもしれない。〉
 主語の揺れ、人称代名詞の揺れ、は日本語の問題とも関係あると思う。「私」の問題との絡みは興味深い。「私」が消えつつある、というのもすごい問題提起だ。

⑥「ことば見聞録」
岩川〈「た」に全部を背負わせてきたけれど、時間の表現は実はもっとあってよいのかもしれないと感じることがありますよね。それをどうにか表すときに口語だけでは無理で、文語をミックスさせるというところはあるのかもしれない(…)〉
川野〈口語だけになったときには時間が消える、とここ四、五年言い続けているんです。〉
 助動詞だけ考えれば口語の時間表現は少ない。それを補うのに他の品詞での表現が発達しているのではないだろうか。足りないから文語の助動詞をミックスするのも短歌の方法としては有効だが。

⑦「ことば見聞録」
岩川〈繰り返し、あれはなんだったのかを考え続ける。そのときに自分だけでは辿り着けないんです。これまで誰かがトラウマについて書いてきた言葉とか、痛みとか苦しみについて書いてきた言葉、物語と出会って初めて、自分のこのなんとも言えない、言葉にできなかったものが、こういうことだったかと納得できる。実は個人的なことでありながら、他者の物語によって初めてわかるという関係性にあるんじゃないかと。〉
 これが文学の存在意義なのかも知れないと思った。

⑧「ことば見聞録」
岩川〈スローガンになったら批評の負けだと思うんです。どことどこの言葉のつながりでこれはフェミニズムの視点からすると違和感があるのかを言い表すのが批評だと思うので。〉
 どの視点からの批評にも当てはまることだろう。

⑨谷岡亜紀「鑑賞佐佐木幸綱」
はじめての雪見る鴨の首ならぶ鴨の少年鴨の少女ら 佐佐木幸綱
〈(…)まさに、この世はまだ始まったばかりで、見るものすべてが「はじめて」の光に満ちている。昔の人は「末期の目」ということを言った。初めて見るように世界を見、最期の見納めのように世界を見るのが、つまりは詩歌である、というのである。〉
 その「昔の人」の言葉に惹かれた。いつもそんな目を持っていられるようにいたいものだ。

2023.7.5.~7. Twitterより編集再掲

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