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『ねむらない樹』vol.3 2019.8.

どんな手を使つてもいい 真実を知りたる椿は咲きつつも落つ 田口綾子 詞書は「戌」。十二支を詞書にしているがそれは読み解けなかった。初句二句は真実を知る手段だろうか。真実を知ったがゆえに落ちる椿。真実という言葉に籠もる重さを思う。

②渡部泰明「殺意の和歌」〈殺意など和歌で表しようがない、だろうか? 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな  周知の『百人一首』の歌である。(…)私はここに、手ひどい相手の裏切りに対して、死をもって贖ってもらうことをいつの間にか心に浮かべてしまう気持ちが、密かに動いていると思う。それはもう(…)殺意に近いとはいえないだろうか。一首は捨て場のない執心が、勢い余って殺意すら抱いてしまう機微をもっとも美しい言葉で表した歌であり、それによって、わが心への鎮魂歌としたものではなかったであろうか。〉
 歌も激しいが、読みも激しいと思った。百人一首で読んだ時は、ちょっと嫌味なのかな、と思っていたが、殺意とは。この読みで一番好きなのは最後。わが心への鎮魂歌。これは短歌の大切な一つの働きと思う。渡部泰明の著書、読んでます。  
渡部泰明『和歌史 なぜ千年を越えて続いたか』|川本千栄|note

③栗木京子「忘れがたい歌人・歌書」
茅蜩のこゑ夭(わか)ければ香のありてひときは朱し雨後の夕映 小中英之 〈一首の中にいずれも陰影を帯びた言葉が配されている。そして、その言葉を核にして心象風景がしっとりと、まるで巻紙をゆるやかにほどくかのように綴られてゆくのであるが、一首を読み終えたあとには不思議なことにあまり陰鬱な印象が残らないのである。むしろほのかな明るさにつつまれているような気がしている。〉
 歌も良いし、評も良い。こういう特集は貴重だと思う。もっともっと「忘れがたい歌人」は存在する。意識して掘り出さなければ。

街が海にうすくかたむく夜明けへと朝顔は千の巻き傘ひらく 鈴木加成太 夜明けが近づくことを初句二句のように捉えた。おそらく街にある朝顔の蕾。それが開くことを結句のような比喩で捉えた。「夜明けへと・・・ひらく」の言葉の繋がりの美しさ。

オレンジの断面花火のごと展きあなたは分けてくれた不幸も 鈴木加成太 オレンジの 断面「を」展き、あなたは「オレンジも(幸福も)不幸も」分けてくれた、と読んだ。断面「が」展き、と自動詞的に取る事もできるだろう。その場合、上句が背景のようになる。その読みも、個人的には好みで、捨てがたいのだが、そうすると「分けてくれた」が浮いてしまうから、やはり前者の読みかな。  
 この連作「浜風とオカリナ」は、美しさと品格のある、とても印象的な一連だった。

誰はなぜ言偏なのかきみはなぜわたしといてもしあわせなのか 西村曜 確かになぜ言偏なのだろう。誰か、と求める時言葉にして言うからだろうか。少し自分に自信が無い主体。君が共にいて幸せだと言っても、本当に自分でいいのかと不安に思う。上句と下句の疑問が響き合う。

突堤は波をしずかに裂いてゆきわたしはもういちどふりかえる 國森晴野 突堤に当たって波が砕けるというのが一般的な把握だと思うが、突堤が波を裂くと捉えた。位置関係的には前に突堤があり、主体は何かをもう一度振り返った、と取った。その言わない何かが重要なのだろう。

⑧ながや宏高「杉﨑恒夫論③」この評論にはとても興味を引かれた。現在杉﨑は『パン屋のパンセ』『食卓の音楽』の2冊でのみ語られているが、この論では杉﨑が「新潟短歌」に発表した作品を丁寧に辿っている。生活との関わり、ユトリロのへの興味など新たに学ぶことが多かった。

⑨高野公彦「短歌の様式について」函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花 石川啄木〈様式美のある歌である。短歌は、むろん意味内容が大切だが、作品の姿すなわち様式も魅力の一部なのである。〉高野はこの後、反復の魅力について様々な例歌を挙げている。

玉葱が芽を出しその芽を葱として摘み取るような日を重ねつつ 永田紅〈自分でもうまく説明できない、「ような」である。(…)感情や感覚などは、複雑で、捉えどころがなく、実は自分でもよくわかっていないものだ。そんななんともいえない部分を、比喩に託す。歌にひとつの比喩表現を与えることで、新しい認識の回路がひらかれ、新たに見えてくる景色が面白い。〉
    これはとても考えさせられる文だ。自分でも捉えられていない感情や感覚を比喩に託して歌にすることによって、自分の認識に新しい回路が開かれる。歌にこうした力があることを意識したい。

⑪寺井龍哉「時評」〈批評は作品と読者を媒介する。とすれば批評が必要としているのは、自分には事態がこのように見える、という告白よりもなお、このように考えれば誰もがこのように事態を見ることができるはずだ、という論理である。〉として加藤治郎の『短歌研究』2019年6月号の論に不全感が残ったと述べる。〈論の全体が結局はごく限られた範囲での共通認識の紹介であるような印象が拭えない。遠い立場にまで届きうるか、疑問である。〉やや古い話だが寺井がこのように指摘していることは記述しておきたい。

帰り路を遠回りしてケーキ買うくらいにはまだ妻を想えり 屋良健一郎 若干衝撃。「くらいにはまだ」ということは、残っているかすかな愛情、ということだろうか。「想」の字からも照れだと取りたいが、妻には直接言わない方がいいと思う。

読みながら傍線を引くのみにして鉛筆は短くならず死ぬまで 花山多佳子 小学校の頃はあっという間に鉛筆が無くなった。大人になったらちょっと傍線を引くぐらいしか使わないから減らない。鉛筆の短さと残り寿命をあっさり比べてしまえるところが個性だと思う。

2022.6.27.~28.Twitterより編集再掲