私の目と私じゃない人の目で、絵を見てみたい
「ママ、だっこ」
と手を伸ばす息子。
2歳くらいのとき、ベビーカーに乗せて美術館へ行った。
はじめはもの珍しそうに見ていたが、2,3分後にあきて、抱っこをせがむ。
仕方ないよね、と思いながら抱っこする。
片手でベビーカーを押しながら、進む。
不自由だったけれど、そうしないとどこにも行けなかったから。
どこへでもベビーカーを押し、抱っこ紐を持ち、出かけた。
動物好きだったので、動物の絵を見せるようにした。
「馬さんだねえ」「にゃあにゃあだねえ」というと、しばし見つめるから。
あるとき気に入ったのは伊藤若冲の、虎。
「このトラさん、カッコイイ!」
「でも、ねこみたいだね」
感想が正直で、おもしろい。
美術館は一人で行くことがほとんど。
でも、家に子どもをおいていけないから連れて行った。
それが楽しいと気がついた。
今はまた、一人で行くけれど。
つきあってくれなくなったから。
ひとりだと、絵を見ているようで、通り過ぎているかもしれない。
そう感じることがある。
何となく見て、解説を読んで、うなづいて、過ぎていく。
もったいないのかも、しれない。
そう思ったのは、目の見えない人とアートを見に行く、ということを知ったから。
全盲の人とアートを見るって、どういうことなんだろう?
どんな絵か説明すること、ではない、ようだ。
目の見えない白鳥さんの前で「あーでもない」「こうでもない」といい合うのを、彼に「面白い」といわれる。
「わかること」ではなく「わからないこと」を楽しんでいる。
確かに、ここにバラの花があって、何色で、花瓶に生けられていて、花瓶は何色で、背景は・・・と説明しても、伝わらないだろう。
どんなに細かく説明しても、実物や写真と変わらない。
それよりも感じたこと、わからないこと、考えたこと、を語るほうが「伝わる」。
語る側は、語るために見ることで、絵をじっくり見る。
ある学芸員さんは説明したあとで「ありがとうございました」とお礼をいった。ここまでじっくり見る機会がなかったから、と。
ある美術展スタッフさんは説明しながら「ここに湖があって・・・あ、これは湖じゃなくて原っぱですね」と驚いた。湖だと思い込んでいた、と。
私も、絵を見ながら自分を見ているのかもしれない。
自分が見たいものを。ある思い込みで。
誰かと見ると、そのヴェールが開かれることがあるのかもしれない。
あるいは新しい目で見られるかもしれない。
見えるものは人によって違う。
そのことを少しでも分かち合えたら、伝わってくるものが変わってくる。
専門家が、一方的に説明してくれるのではなくて(それも好きだけど)。
感じながら、しゃべりながら、自分たちの輪をつくっていく。
絵を囲む、輪。
息子と見た時、それまでと違う目で絵を見ていた。
目線を低くしていたつもりだったけれど、まっすぐ素材に向きあっていた気がする。
ゆったりした気持ちで、見ていた。
自分の「見る」「知る」「体験する」を確かめたくなる。
そして、もう一度小さかった息子と「これ、なんだと思う?」と絵を見に行きたい。
白鳥健二さんは、大学時代に交際していた女性と美術館に行き、そのおもしろさにはまったそうです。
美術館に見学を頼み、何度も行くようになります。
現在51歳。「全盲の美術鑑賞者」で写真家。noteを書いてます。