「学校の宿題」の意味を考えてみた夏の朝
今は、難しい問題も、Googleレンズをかざすだけで、答えを教えてくれるんですって。
教育学部時代からずっと思ってました。
「宿題も、意味を理解すれば有益なんだけどな」
なのに、今では、宿題の代行ばかりか、「親に添削依頼」をする教師もいるそうです。私からしたら、親に添削を依頼する教師なんていらないと思うんですけどね。○をつけるだけなら生徒にも出来ます。そして過去、それは問題になりました。(採点を生徒にさせていた先生)
その宿題をさせる意味って何ですか?
書いて覚えるという「作業」の有益性を体感
確かに、書いて覚えるという「作業」の有益性を体感してもらうのは一つの方法だと言えます。
仕事をしている人ならわかりやすい事ですが、「実際に書く」ということは、意外なほど脳に入ってきます。そしてそれを知っているから「紙の手帳」が未だに根強い人気ですし、「マインドマップも紙で無ければ!」という人もいます。また、書籍にしても「電子版は・・・やっぱり紙が」も同じ事では無いでしょうか。
しかし、その作業でも、指導者の専門的な観点によるチェックがなされないと、単なる無意味な作業になってしまいます。しかも、写経のような効果も無いし。
「書いて覚える、型を真似る」
大人になってもよく聞くフレーズではありますが、相手が子どもだからこそより丁寧に、「ここのこの角度をね・・・」とより熱を込めて伝える必要があると思ってます。
宿題は提出物回数レース・・・?
先生も忙しいので、おそらくですが、細かく『全員』の宿題の誤答箇所まで見ていません。夏休みの宿題などは、本人が書いた・描いたかどうかも怪しい・・・ということは伝わっています。(でも、専門家ですから「はいはい、まぁこの程度ね」と片目をつぶって見てくれている状態ではないでしょうか。)
だとするならば、宿題は何が大事かというと、そもそも宿題は提出回数が最も大事な事になっているような気もしますし、熱心な先生からは「絶対に違う!」と強いお叱りを受けるかも知れません。
ベネッセ先生の見立て
ベネッセ先生の見立てでは、宿題の目的とはこのようなものです。
これを私なりに解釈すると・・・・
『宿題の目的とは、指示・Task・課題(何でも良い)があることがわかれば、自分の時間を管理し、「する」習慣をつけるということ。未来に起こること予想(時には何度も体験)することで「これをやらなければ明日どうなる?」を考える習慣につながる。つまり宿題とは、人が最も苦手とする計画性を養うものだ。』
しかし、現在、多くの子どもが「する=目の前から消す」事のみに集中し、学習の観点が抜け落ちているように思います。それの原因の一端には、「宿題=与えておけば良いだろう」と考えている先生がいるのも原因の1つだと思われます。
やっぱり提出回数レースでしょうか?
秋田式ノート
秋田式ノートは、私がもっともっと研究したい学習スタイルです。しかし残念ながら予算の都合上、個人のブログや写真からの分析にとどまっています(涙)
全国にどのような取り組みがあるかどうかまではまだ知らないのですが、この秋田式ノートには『コーネル式ノート』並のポテンシャルを持っていると信じています。
理由は、「めあて」の設定にあります。
今から自分は何を目的として作業するのか?これはnoteを書いていても基本的な考え方となります。
宿題を単なる事務作業とさせないポイントは、この「めあて」を具体的に生徒にしっかりと伝えることにあるような気がします。この「めあて」(リストにしたもの)を、生徒の進捗度合いに合わせて提示することが出来れば、子ども達にとって考えるきっかけになるのではないでしょうか。
調べる過程でたまたま見つけたこのブログ、とても興味深かったので記録として。
問題点の文字化(文章化)
人は言葉をあやつり進化してきました。大人になっても、話し方の上手い人、下手な人、文字なら上手く書ける人・・・みんな言葉の前に右往左往しています。天才的な文章を書ける人にあこがれ、「自分もそうなりたい」と思ってnoteを書いている人は大勢います。私もその1人です。
その人達のnoteを読んでいて思いました。
皆さん、感情や状況、目に見えている問題点を文字化する事がうまいんです!
だから心に響くし、記憶に残るのです。
だとすれば、問題点をもっと相手に伝わりやすく文字化する事に心血が注げられれば、自分オリジナルの「めあて」が見つかるじゃないか・・・・宿題で(笑)
宿題は分からないところを見つけるだけで良い
私が思う宿題は、分からない所を見つけるだけで良いと思います。しかし、その分からない所については丁寧に「どこがわからないのか」を説明する必要があります。
何を見て、どこまでやったけど、答えが合わない、たどり着かない等。
例えば算数も英語も「自己申告」で『適当にやったら答えがあってた』という所を潰していくだけでも随分違うと思うのですがどうでしょうか。
『どこの部分がわからなかったから、適当にやってみたのか』
問題の本質はそこにあるような気がします。そうしたら「主語って何?これ動詞?」「約分の意味が分からん」等、いろんな問題が見えてくるのでは無いでしょうか。
昔の私がよく言ってました。「わからないところがわからない!」と。何が分からないかわかっていない生徒に宿題だけ出してさせても、成果は出ません。それは、自習です。思いっきりその「自分が分からないところ」にフォーカスして、つまずいた所を文字化してくれれば先生も説明しやすくなると思うし、子どもの国語力・問題発見能力・質問力も上がると思います。
宿題の無いカナダ・・・不安しか無い私
今、息子が通っているカナダ・BCの田舎町の学校では「(与えられる)宿題」なる物はありませんが、先生は『(宿題は出さないくせに)Homeworkしてる?』と聞きます。日本で育った私としては『宿題ってHomeworkじゃないんかーーい!』と何度も思いました。でも、これがきっと秋田式ノートのような事なんです。自ら問題を設定し解決する計画性・・・・(頭がクラクラしてくる)
自分の学習法研究がまだ未完成なので、手探り状態ですが、毎日少しずつ、目的を設定しながら子ども達の家庭学習を進めています。
簡単に分かる解など聞かれることなど無い社会
社会に出ると、簡単に分かる解など聞かれることはありませんよね?だって、インターネットが瞬時に教えてくれるのですから。「ググれカ○!」もそれですよね。(言葉が汚すぎて、使うのもはばかられます。)それよりもこんなシーンの方が多いような気がします。
こう言われたときに、求められるのはこういうことですよね?
それはつまりこういうこと。
■情報収集(好み、アレルギーの有無、町のケーキ屋情報)
■タスク管理(わかりやすい表の作成方法)
■予算の確認と個数の計算(よりお得なケーキを算出、ケーキ屋と交渉)
■電子書籍を出される方へのお祝いとしてふさわしい心のこもったメッセージとは(ネットで検索・選定方法・作文能力)
■ケーキはいつ受け取るべきか、そのためにはいつ注文し、支払いはどうするか(一目で分かるスケジュールの管理方法)
■手書きが一番!書体はどうしよう・・・・まず、ペン字教室から?
■案内メール、相手に何を伝えるべきか(情報の選択)
■数字はきれいに正確に!2日後には会計報告!(継続的な会計管理)
■パーティなのにケーキのことしか言わない発案者の計画は大丈夫かと疑う(相手の立場に立ってみて、考える)
宿題は、将来おこりうる問題を想定(めあて・目的設定)して取り組む事で、ずいぶん結果は違ってくると私は思います。
これらの事を細分化した物・・・・それが宿題なのです!
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