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生き残るマンモスー就職氷河期、リーマン、コロナー 2. 凍てつく面接と最初のステップ編


仕事を探すなら、転職サイト?

 見出しがもうどこかの転職サイトの宣伝コピーっぽいのだが、まさしくそう思っていた。実はハローワークとか今ならLinkedInなど他にも手段はあるのだが、カナダで就職活動した時の経験しかなかったため真っ先に転職サイトにアクセスした。
 あちこち見たと思うのだが、今でもよく覚えている。
 あの頃、転職サイトの求人欄にはすごい案件が並んでいた。

・実務経験3年以上5年以内
・TOEIC850
・月平均残業20時間
・Office系ソフト、業界ソフト経験者優遇、チームワークで業務遂行することができ、積極的にリーダーシップを発揮できる方
・新卒

 最後の1行で、全てがぶち壊しである。
 どこの世界線に行けば実務経験が3年以上ある新卒が存在するんだろうか。インターンシップのことか? と最初は思ったのだが、インターンだって年がら年中できるもんじゃない。どっかの段階で大学に行って講義を受けて課題をこなしてなければ、どうやって卒業できるのか。
 つまりドラえもんでも存在してコピーロボットを用意し、一人は大学に一人は高卒で仕事をしてなければならない、未来の猫型ロボットありきな求人案件がごろごろ転がっていたのである。
 姿は見えるけれど、実在しない。当時の求人サイトに転がっていたのは、こんな幽霊案件たちだ。
 この不毛なゴーストたちを眺めて帰国から2週間くらいが経った時、猫たちが空港の検疫をパスして実家へとやってきた。
 余談だが、この猫たちはカナダのシェルターで出会った保護猫たちである。いわゆる雑種だがもふもふの長毛で大きくて、私と出会ったばかりにカナダ国内で大陸横断の上に飛行機に乗せられ太平洋を横断し、成田空港から山口の実家へとやってくる羽目になった2匹だ。
 猫たち2匹と一緒に生きていかねばならない。住む場所、生活費、全てを賄わねばならない。当時24歳だった私の肩には猫たちの命という責任がとても重くのしかかっていた。当然ながら地元で仕事をまず探したが、英語力を活かせる仕事は全くなかった。別に英語を生かさなくてもいいのかもしれないが、それではなんのために6年もカナダで頑張ったのか……全てが無になるような気がして、英語と無関係の仕事だけは避けたかった。
 しかし、焦りをよそに仕事は見つからない。
 転職サイト以外の可能性も考えようと、実はこのころ公務員はどうだろうと、警察官になれるかな、などと調べもした。結論でいうと、私がもつカレッジの卒業資格や身長が規定に足りず、また試験の時期がかなり先だったりで断念したのだが、本当にありとあらゆる可能性をこのころ模索した。
 そうして見つけたのが、派遣の仕事だった。
 私と同世代でキャリア形成に苦しんだ、または進行形で苦しむ皆様はきっとよくお分かりだろう。
 派遣の仕事は、敷居が低い。贅沢はできないが死にはしないボーナスなしの時給条件で、わりとこの氷河期でも存在していたのだ。
 藁にもすがる、とはこのこと。
 私は数件の求人に応募し、なんとかその一つにありつくことができた。

東京へ、2匹の猫といっしょに

 人生とは誰にとってもジェットコースターだと思うのだが、私のもかなり激しい。帰国後に無職で猫2匹と幽霊案件を眺めるしかなかった私が仕事に着いたのは、大手町のツインビルの一つだった。
 そう。超絶優良外資企業、スイス銀行である。
 とってつけたような安いペラペラのリクルートスーツで向かった、最初の面接。通されたビルのものすごさにもびっくりだったが、とびきりのスレンダー美人が、颯爽とヒールの踵を鳴らして会議室に現れたときは非現実すぎて目がチカチカした。
 絵に描いたようなキャリアウーマンでドラマとかに出てきそうにスタイルいいし、クールなのにたまにふっ、と笑顔なんか浮かぶからギャップ萌えだ。かっこいいいいいいい!!! と面接の場なのに内心で盛り上がってしまったのだが、この美人さんがこの後で私の直属の上司となるKさんだった。そしてありがたく採用通知をいただくのである。
 派遣契約ではあるが、この転職は大きなステップだった。
 ……と先に進む前に、ここでの転職のコツについて触れたいと思う。

転職のメンタル(1)


 カナダから帰国した時点で転職の目処は、ゼロだった。
 なんのあてもなく、お金もない。詐欺弁護士に取られた2500ドルは返ってくるわけもなく、カナダで所持していた車や家財は全て渡航費用と猫2匹の検疫費用に消えており、所持金は郵貯に5万円があるだけだった。
 加えて言えば私が卒業したのは2年〜3年制(学科により異なる)のカレッジであり、いわゆる日本企業が求める「四年大」ではない。
 当時24歳で一度イタリア系企業で就職していたせいで、就職浪人などが当てはまる新古卒でもない。
 ないないなんにもないづくしである。
 履歴書のスペックは限りなく低く、いい仕事が見つかる可能性は低い。
 非常に厳しい条件だったと思う。
 それゆえに、ここを打開したのは英語力でもなく、履歴書でもない気がする。
 メンタル力、ただそれだけだと思う。
 私はカレッジ卒業の頃からやるようになったのだが、何かに挑むときや悩むとき、ノートに全てを書き出すようにしている。全てのマイナス要素とプラス要素を書き出すのだ。
 当然、この時も私のスペックは最低。もしも自分が当時の厳しい就職戦線で面接官をしていたら、採用しないと断言する。
 紙に書けるスペックは、そう簡単には変えられない。
 その上で、事態を好転する可能性を見つけることに集中する。
 紙に書かれたスペックは悪い。けれど、紙に書かれるスペックは私という人間を表現するほんのカケラでしかない。
 では、履歴書に書かれない私のスペックとは、なんだ?
 一体何をどう経験してきた? 
 頑張ってきた? 
 なにに向かって努力した?
 そんな小さな出来事や為したことを一つ一つプラスの方に、書いてゆくのだ。
 たとえばそれは事務職のはずなのに、(確か最初はいつも担当する人がいなかっただけ)突然クレーム対応を任された事。
 お客は怒り心頭で、すでに納品済みの商品を交換しろと喚き立てる。
 それも無論のこと、英語だ。
 その時自分はどう対応したか、顧客対応でのゴールはどこなのか。
 結果的にどうなったか、その経験から何を得たのか、今ならどうするのか。
 事柄の一つ一つは小さい事だが、絶対に何かの気づきや学びがあり、我々はそれらの積み重ねで構成されているのだから、無視してしまうのは勿体無い。
 そうやってノートを作成してゆくと、その時点での私という人間を説明する概要書が出来上がる。
 それをじっくり眺め、読み込む。小さい事柄でも、成功体験は大きなメンタル資産になる。
 記憶をたぐれば、最初に怒り狂っていたお客が、電話の向こうで落ち着いた声になってゆき、通話を切る前にはThank youと言われた。
 そりゃもうとっても安堵して嬉しかった。
 これは一つの経験だが、私と全く同じ状況で全く同じように対応をした人間は他には誰もいない。
 唯一無二、私だけの経験なのだから自信を持つしかないだろう。
 こうして私はノートのプラス側を増やしてゆき、自分のポジティブなメンタルを構築している。
 放っておくと、いろんな嫌なことは勝手に起きる。それが人生という輩なので、生きていて気持ちが落ちるのは当たり前なのだ。
 メンタルは空気の入った風船みたいなもの。
 人の手を入れていい感じに押し上げないと、あっという間に急降下する。色々あるんだから、そうなるのがある意味で自然なのだ。
 落ちたくないのなら、メンタルを構築していくのがいい。
 プラスは得られた自信になる。そして自信のあることは、面接でしっかりと伝える。
 まず履歴書の、備考欄。
 特に20代のころ私は簡潔に、応募した仕事について考えるゴールと取り組み方を書くようにしていた。学歴欄の有名大学卒業には敵わないかもしれないが、ベストを尽くさない理由はない。
 そして、面接でしっかりと、姿勢をよくして面接官に自分という人間のおすすめの部分をご紹介する。
 私は、私という人材の営業マンなのだ。
 その意識はとても大事にしてきたし、今後も大事だと思う。
 

<3.ツギハギ派遣道とイラスト副業編>につづく

#就職氷河期

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