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カウンセリングの最中に、カウンセラーが涙を流したくなりました。・・・さて、どうしましょう?

瞳が潤むのは、相手にも見えています。

瞳が潤んでいることを冷静に客観視する、「もうひとりの醒めた自分」を確保し、更に内心で「瞳潤んでやんの!」と苦笑するくらいのspaceが心の中に欲しいものかと思います。

すると、潤むのは少し引っ込んで、
(さあ、潤んだぞ。どうなるかな?)
くらいの心境かと。

まさに「しのぎ切る(work through)」でしょうね。治療者側の。

私は、ご存じのように「熱血漢」でして、フィクション観る時はボロボロなくタイプですが、リアルとなると驚くほど自分の感情と距離が取れちゃうタイプです。

共感も「演技」、感情を込めて語るのも「演技」「役者」としての自分を、もう一人の自分が冷静に監督、「演出」しているわけですね。

これがユングの言う「ペルソナ」に意識的である、ということなわけですが、ある意味で欧米人的だと思います。

このへんは、限られた渡航歴ではありますが、私のホントのフォーカシングの師匠たちのふるまいを現地で観て、交流する中で、

相手に気持ちを伝えるためには『感情的』になってはだめで、演技に感情を『乗せる』のだ、そうすると、日本人同士では通常不可能な域の誠意ある絆が生まれる

という逆説に気づいたせいだと思います。

これは相手を「操縦」もできるという諸刃の刃でもありますが。

私は語学力(特に会話力)は法政でも競争率が低い哲学科レヴェルそのもので、バイリンガルでもなんでもないのですが、ことフォーカシングに関しては、辞書を引きながらですが英語で論文をみんな読んできたせいか、自分が思っている以上に「英語脳」になっているところがあるようです。

単語力は乏しいのに「英語で考えている」ようなところがあって、思わず( )入りで英単語を埋めることがX上でもありますが、「学術語」を本来の「日常語」に解体するようなところがあるのはこれまでしばしばみられたかと思います。

漢語のままの専門用語の流通は頭でっかち増やしただけと思ってます。

「感情(emotion)」を使う、のではなくて、「感じつつある感覚(feeling about feeling)」を「参照する(refer)」ということなわけですね。そこから出てきた言葉なら、少なくとも「害はない」ということかと。

まあ、おかげで、「あなたは、すごくやさしいけど、冷たい」と、過去の彼女に言われたことがあります(^^;)

実はこのへんは、今後の「#推しの子」論(恐らく第5回 TVアニメ第1シリーズの総括)で、改めてもう一度包括的に考察します。

主題歌「アイドル」の
♪嘘こそ完全な愛♪
が、マジ、そうではないかということを。


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