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キリスト教と個人主義の関係についてのとりあえずの考察
キリスト教はユダヤ教を当然のごとく背景としている。
ユダヤ教の神ヤハウェは唯一神であり、多神教の神々のような意味での「身体性」を有しない。
その点からすると、「身体性」を持った「神の子」イエスを世に遣わしたとされた時点でとんでもないくらいの革命的な転換をしている。
そして325年の第1ニカイア公会議で「三位一体」の教義が採択され、「父、息子、聖霊、三つの位格。しかし、彼は一人の神である」とされたことにより、「身体性」をもったイエスは、神秘的な性格を与えれることとなる。
そしてその「身体」を持ったイエスが十字架の受難を受けていったんは死ぬ。
イエスの受苦は"Passion"と訳されるが、"compassion(共感)"とは、イエスの苦しみを想起し、我がことのように「共に-する(com-passion)」ということになる。
「使徒信条」に、
わたしは、天地の造り主(つくりぬし)、全能の父である神を信じます。
わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから 生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。
わたしは、聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠(えいえん)のいのちを信じます。
アーメン
とあるが、イエス・キリストの死によって、信仰する人間の罪が赦され、神との正しい関係に入り、永遠の命を得ることを指す。
ルターは、この世においての善行によって救われるわけではなく「信仰によってのみ義とされる」とした。
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さて、プロテスタントにおいては、教会に赴き、礼拝で牧師さんの話を聴き、一定の祈りをささげることが「信仰」なのではない。
マタイによる福音書6:6-13(いわゆる「主の祈り」)に、イエス自身の言葉として、
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
とある。
洗礼や堅信礼を行えるのは牧師のみであるが、聖書を通しての神との直接の関係が重視され、プロテスタント諸派には「聖職者」というの呼称・役割が存在せず、牧師は教会の指導に当たる存在と位置付けられる。これを「万人祭司」と呼ぶ。
こうして、神との直接的関係が重視されるのがプロテスタントであるが、単に神の存在を「信じる」のみならず、神の「臨在」を感じるかどうかが信仰の大きな別れめと思う。
例えば、何かをやろうとしてもうまく行かない。例えば思いもよらず忘れ物をする。そうしたことを、間違った道に進もうとしないための神の「はからい」であると体験する信者も少なくないであろう。
どうも自分の意識や意志を超越したところに、神と呼ぶしかない「存在」がいて、配慮してくれている。
これは、心理学的に言えば、自分から「解離」した、もうひとつの「人格」が機能しているということにもなろうかと思う。しかしこれは近代の「人間の視点から」みての神の理解であり、中世までのキリスト教徒にとっては、神というものはまさに、自己を超越した「存在者」として体験されていたと思う。
ユングも「自我」ではなくて、意識できない「自己(Self)」こそ人間の統合の中心であるとみた。「超越機能(能動的想像)」においては「アニマ」の声を判断を交えずにまずは聴こうとする態度を求めた。
「幸福論」の著者であるカール・ヒルティは、
ひとは祈りに対する神の答えが聞こえなければならない。そのためには普通の「祈る人」たちよりもかなり鋭い耳を持ち、我欲の少ないことが重要である。
答えを期待しもせず、また得られもしない祈りは、単なる無益な形式であって、やめても一向にさしつかえない
とすら書いているが、もちろん大抵の人のたいていの場合「神の声」が耳の中に実際に聞こえるわけではない。しかし、神からの「応答」があるという感覚は、私個人的には重要なのではないかと思う。
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プロテスタントにおいては、この世の世俗的な権威は、その存在は認めたとしても、真の権威は神のみであるという立場だと思う。ある意味では、教会ですら「権威」ではない。
そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。
そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、
「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。
イエスは彼らの悪意を知って言われた、
「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。 税に納める貨幣を見せなさい」。
彼らはデナリ一つを持ってきた。
そこでイエスは言われた、
「これは、だれの肖像、だれの記号か」。
彼らは「カイザルのです」と答えた。
するとイエスは言われた、
「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
ここに私は、近代個人主義の萌芽をみてもいいと思う。
市民としての義務は果たす必要があるとしても、神を信仰する以外、この世には「権威」はない、ということになる。
私の好きな讃美歌447番の歌詞は以下のとおりである:
1
いさめや、はらから くらき路にも
しるべの星あり あおぎて進め。
はるけき行く手に こころ落とさず
み神にたよりて 進め、すすめ
おおしくすすめ。
2
たくみとてだてを 全くうちすて
勝敗わすれて まさみち進め。
党派をたのまず 首領(かしら)によらず
み神にたよりて 進め、すすめ
ただしくすすめ。
3
誉れにまよわず 人にひかれず
慣(なら)いになずまず まさみち進め。
おもねりそしりの さかいを離れ
み神にたよりて 進め、すすめ
ますぐにすすめ。
4
み神にたよりて まさ道ゆけば
平和とよろこび こころにあふる。
いさめや、はらから くらき空にも
しるべの星あり、 あおぎ進め
おおしくすすめ。