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セックスとジェンダーの海に浮かぶ孤独なラッコとしてのわたし

セックスとジェンダーを思うとき、わたしのまぶたの裏にはいつも海が映し出される。その海の端と端には“男の島”と“女の島”がそれぞれあって、各々の離島もあって、あとはそのあいだとかまわりに大小も形もさまざまな島がぽつぽつと存在している。

その海の中で、わたしはどこの島にも所属していない。“女の島”と“男の島”のちょうど中間あたりを、孤独なラッコとしてぷかぷか浮かんでいるのだ。生まれは“女の島”だけど、どうも居心地が悪くて定住できず、物心つくころにはすたこらさっさと“女の島”を逃げ出していた。

“女の島”から逃げたからといって“男の島”にも移住する気にはなれず、さりとてその他の島にもなんだか馴染めず、最終的にはどこの島にも住まないことに決めた。だから今は、たった一匹で孤独に貝を割ったり眠ったりしている。

わたしの場合、恋をしたりセックス(冒頭でいうセックスとはもちろん違って、性行為のほうの意味での)をしたいと思うのは、なぜだか決まって生まれつきの“男の島”の住民か生まれつきの“女の島”の住民に限られていた。でも、これは今までの経験に基づいたことだから、未来のことはわからない。もしかするとわたしはこれらふたつの移民に恋をすることもあるかもしれないし、はたまた他の島の住民に欲情することもあるかもしれない。

恋をしたりセックスしたいと思う相手のことを、わたしはおおむね異性として認識している。わたしは“女の島”出身だけど、同じ“女の島”の住民の中でも異性だと感じる人と同性だと感じる人がいて、異性と感じる人にしか恋はできないし欲情しない。でもだからといって、異性が全員恋と欲情の対象かと問われれば、そういうわけでもない。嫌いな異性もいるし、友達になりたい異性もいる。同性には恋も欲情もしないけど、友達になりたいのもいれば、気に食わねえ奴もいる。“男の島”の住民に対しても同じ。

ちなみにいうと、わたしの10年来の推しである綾野剛は“男の島”生まれ“男の島”育ちであり、高校生のときにグラビアの表紙を眺めて鼻の下を伸ばしていた篠崎愛は“女の島”生まれ“女の島”育ちである(でもこれは、わたしから見た綾野剛と篠崎愛だから、もしかしたら本当は違うかもしれない)。

ついでだから他の島の話もすこししておこう。他の島についてはわたしは住民じゃないから確かなことは言えないが、“女の格好をする島”とか“男の格好をする島”とか、“男でも女でもない島”とか、"男でも女でもある島"とか、“性別がない島”とか、"恋をしない島"とか、"性欲がない島"とか、そういうのが無数に散らばっている。ぜんぶ覗いたことがあるわけじゃないから確実なことは言えないし、もちろんわたしが知らない島だってたくさんあるはず。

孤独なラッコのわたしは世間の基準に当てはめるのならば、ノンバイナリーということになる。恋と欲情の相手は便宜上わかりやすいのでバイセクシュアルと称することが多いが、さっき述べたようにわたしにとっては全員異性なので、わたしはわたし自身を「異性愛者」だと思っている。

ただここで気をつけておかねばならないのは、同じノンバイナリーとカテゴライズされる/名乗る人たちでも、全員がラッコとは限らないということだ。どこか他の島とか、“女の島”や“男の島”の離島の住民もいれば、ラッコではなくカモメとして島を渡り続ける者もいる。あるいはわたしと同じラッコでも、浮かんでいる場所が違うラッコだっているし、群れるラッコだっているだろう。“男の島”にもう少し近かったり、海の周縁に浮かぶラッコもいるかもしれない。

もしくはラッコでもカモメでも島の住民でもなく、チョウチンアンコウみたいに海の深いところを漂う者もいる。そして他の島の住民もラッコもカモメもチョウチンアンコウも、全員がノンバイナリーとは限らない。すべてがイコールにはならないのだ。我々は個人だから。

ときどき、生まれつきの“男の島”と“女の島”の住民で、他の島はおろか離島の存在すら知らない人、ラッコやカモメやチョウチンアンコウを見たことすらない人というのがいる。そもそも、自分たちの島の住民同士にだって違いがあるということも認識していない人だっている。もしくは存在自体は知っているけど、たとえばラッコはみんな同じだと思っている人もまだまだ少なくない。

この“知らない人”に対して、孤独なラッコであるわたしはいつも、知ってくれたらいいなあと願っているのだ。知ってほしいなあ、興味を持ってほしいなあ、と願いながら、わたしはせっせと貝を割る。

わたしたちはそれぞれの島の住民として、あるいはラッコとして、カモメとして、チョウチンアンコウとして生きている。生きる権利がある。見下されたり、疎外されたり、迫害されたりするいわれはない。どこに浮かぶのもどの島に住むのも、潜るのも渡るのも、わたしたちの自由だ。

わたしは孤独なラッコとして、同じラッコや、カモメやチョウチンアンコウや、他の島の住民たちのために、あるいはそれを応援してくれる“男の島”や“女の島”で生まれ育った住民たちのために、なにより自分自身のために、こうしてぷかぷか浮かびながらキーボードを叩いている。

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