台湾漫遊鉄道のふたり(感想)_価値観を押し付けないことと、百合
『台湾漫遊鉄道のふたり』の著者は楊双子で、訳は三浦裕子となり日本での初版は2023年4月、出版社は中央公論新社。
1938年、日本の統治下にあった台湾へ日本人の女性作家が訪れ、鉄道で移動しながらのグルメ旅でありながら、現地人通訳との百合もあるというてんこ盛りな小説。
以下、ネタバレを含む感想などを。
素晴らしい料理の描写
1938年(昭和十三年)、長崎在住の作家、青山千鶴子は台湾総督府と現地の婦人団体から招かれて念願だった台湾を訪れる。
千鶴子の小説『青春記』が映画化して台湾でも好評だったことから、原作小説の著者を台湾に招いて巡回講演会を行うための招待だったが、姉や義姉にすすめられる見合い話から逃れたいこともあって千鶴子にとって渡りに船だった。
当時の台湾は日清戦争の結果、日本に割譲された植民地だったから日本と現地に元からあった文化が入り混じっていたり、作家が日本帝国の宣揚に利用されるなど、政治的な背景も絡み合ってくる。
千鶴子は現地で通訳として紹介された台湾人の千鶴をいたく気に入り、二人は台湾各地を鉄道で移動し、景勝地を巡りながらその土地ならではの様々な食を楽しむ。だからこの小説は訳者あとがきにあるとおり「美食×鉄道旅×百合」小説となる。
ぼた餅を一口でほおばるような大喰らいの千鶴子が食材豊富な台湾各地の様々な料理を次々に平らげていく描写が素晴らしい。
台湾に行ったこと無いし、料理名を見ても食べたことの無いものばかりのため味はなんとなくで想像するしかないのだが、それだけでも心が満たされるというか食欲が湧いてくる。
千鶴子が腹を空かせて帰宅したら、千鶴が米篩目を買ってきた描写の旨そうなことといったらない。
うどんのようなものを連想させる麺と、豚肉、韮、醤油、出汁の組み合わせが素朴だけど食欲をそそる。
しかも昼食で不愉快な思いをしたことを想像して、先回りして用意しておいてくれた気の利かせ方が至れり尽くせりだ。
千鶴へ熱烈な好意を寄せる千鶴子
25歳の千鶴子は女性にしては身体が大きく、学生時代の千鶴子は『のっぽででくのぼうの北山杉』とあだ名をつけれられており、親しい友人はいなかった。
性格は細かいことが苦手で、小さなことにはこだわらない。そのせいで繊細な性格の人にはとっつきにくいところがあると思う。
それなりに格の高い家に生まれた千鶴子ではあるが、見合い話しで紹介される男性の条件が低いのは、千鶴子が高身長であり、年齢またはその器量によるものなのなのかもしれない。
いずれにせよ、千鶴子は家庭に入って夫に尽くすタイプの女性ではない。
周囲の目を気にせず旺盛な食欲を恥じるではなく、むしろ生きる喜びとばかりに、まだ食べたことの無い料理を求める好奇心には好感が持てる。
そんな千鶴子がはじめて千鶴と出会ったシーンの印象は、初対面からして好意的なものだった。
また、高田夫人に紹介されて再会した際に、千鶴子はしどろもどろになって千鶴への好意を隠しきれておらず、見た目からして千鶴のことを好きなのだと思う。
さらに、茘枝の芳醇な果肉に千鶴の肌色を例える様子には、千鶴を食べてしまいたいほどに好意を寄せていると思われ、天使のように気が利いて優しいけれども、なかなか心を開いてくれな態度を悪魔に例えており、それはまるで恋する少女のよう。
奔放に生きる千鶴子
千鶴が千鶴子へ心を開かないのには理由があって、最初にそれを感じさせるのは千鶴子は講演を行った高等女学校での千鶴の待遇が悪かったとに対して憤り同意を求めている場面。
これに対して千鶴は「青山先生なら、きっと本当にやってのけるのでしょうね」と無難に返しているが、この言葉には”自分ならやらないけど”というニュアンスも感じる。
千鶴子はさらに「友達になりたい」と続けるが、微笑んで分かりましたとだけ返すことから一歩引いた姿勢だった。
出会ったばかりの美島の対応もそうだが、千鶴子のように思い込みの激しい人間に接した時、多くの大人は軽く受け流して反論をしないだろう。
なぜなら、自分の態度が相手を傷つけているという想像力の足りていない人には何を言っても無駄だと思うし、説明しても理解されないと感じるから。
しかし千鶴子の親切が、お仕着せがましいものであったとしても、同じ時間を共有していくうちに「この世で私のことを気にかけてくれているのは、たぶん青山さんだけでしょう」と千鶴が感謝しているのも確かで、二人は徐々に親密になっていくのだが、やがて千鶴は明確な理由を告げずに通訳を辞めてしまう。
21歳の王千鶴は富農の王氏の一族ではあるが妾の娘で、母は農家の出身で芸旦歌で歌を売っていた。
仲の良くない兄弟とは疎遠で親に頼ることは出来ない。早くに聡明さを発揮したから教育を受けられたが、やがて王氏と共同で事業をする日本人と結婚する予定になっている。
しかし千鶴は妾の娘の将来は妾になるのが当然で、むしろ許嫁を引き当てたのを運が良かったと言っている。
さらに「自分で自分を護れる人」に育てようと母親や周囲の人たちから教育をされており、自分の頭で考えて行動出来る聡明さがあったからこそ、千鶴子の希望を先回りして様々な配慮を出来たとも言える。
でも、だからこそ千鶴子の態度を過剰だと感じていたし、上下関係を感じたのだろう。
友達としての関係性を考える
千鶴は日本人との結婚を心から望んではいなかったが、もし結婚を拒んで翻訳家を目指すとしたら、それは同時に自身を育ててくれた人たちを裏切ることにもなる。
そういう気持ちを汲み取ろうとせずに、「翻訳家になりなさい」と自身の価値観を押し付けてくる千鶴子に耐えられなくなったのだろう。
良かれと思ってやったことが現地の人々にとっては迷惑だったというのは、日本が植民地の台湾に対して行ってきたことと同様で、最初に通訳を務めた美島から指摘されてはじめて気付く。
日章旗や日の丸帝国のやり方を嫌っている千鶴子だけに、良かれと思ってやっていたことが自身のダブルスタンダートを指摘されてショックを受ける。
ではなぜ、千鶴は千鶴子の傲慢さを最初から指摘しなかったのか。
内地と本島、雇う側と雇われる側という上下関係もあったのだろうが、「自分で気づいて欲しい」という思いがあったのだと思う。そもそも上下関係のある友達なんて歪だし、親しい関係というのは「友達になろう」と宣言してなるより、普段のコミュニケーションによって自然とつくられるものだから。
それでも直接会って謝罪するためにわざわざやってきて、めげずに愛の告白のような言葉を口にするがまるでプロポーズだ。
そうして千鶴子のしぶとい素直さに根負けしたのか、千鶴は受け入れてくれる。
なんとも言えない温かい気持ちになるのは、的外れだったかもしれないけど千鶴子の親切にしたいという思いであったり、自身の間違いを謝罪して変わろうとする千鶴子の素直さに魅力を感じるからだと思う。
千鶴子視点で進行する小説は一区切りをついた後、千鶴子と千鶴の子供たちによる交流によって、それぞれの視点によって振り返られるため実話かと錯覚させる構成になっているのもユニークで、後書きを読むまで騙されかけた。
鉄道旅は無理にしても、掲載されたいくつもの料理は現在でも食べられるというのには希望があって、いつか台湾旅行に行きたいと思うけど、取り敢えず近場で本格的な台湾料理の店が無いか調べたくなる。
全体を通して思うのは、千鶴や美島の言葉を通して現地人の気持ちを大事にしているため、2024年現在も脅威を与えて続けている中国本土の人たちにこそ読んでもらいたい小説なのだろう。