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性食考(感想)_食べることが、性や暴力に結びつくこと

『性食考』は「性」と「食」の繋がりや関係性をテーマに様々な神話、文学、美術などから、赤坂憲雄の紐解きによる思索がまとめられている本で2017年に岩波書店から出版。
生物としての人間が、かつては動物との境界が曖昧であったのが徐々に動物性を失い隠していく過程で、何を失い変化していったのかということを、性と食にフォーカスし、8章に分かれて紹介されている。
以下、読んでいて特に気になったことについての感想などを。

「食べちゃいたいほど、可愛い。」このあられもない愛の言葉は、“内なる野生”の呼び声なのか。食べる/交わる/殺すことに埋もれた不可思議な繋がりとは何なのか。近代を超え、人間の深淵に向かい、いのちの根源との遭遇をめざす、しなやかにして大胆な知の試み。

食、性、暴力が絡み合っていること

以下、宮沢賢治「蜘蛛となめくじと狸」(二、銀色のなめくじ)より

「なめくじさん。おなかが何だか熱くなりましたよ。」ととかげは心配して云いました。
「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ハッハハ。」となめくじはやはりもがもが答えました。

「なめくじさん。からだが半分とけたようですよ。もうよして下さい。」ととかげは泣き声を出しました。
「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ほんのも少しです。も一分五厘ですよ。ハッハハ。」となめくじが云いました。
 それを聞いたとき、とかげはやっと安心しました。丁度心臓がとけたのです。
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<中略>
嘗める行為が、傷を癒やすことから、殺すこと、食べることへと深化してゆくプロセスが、ここには描かれていたのである。しかも、とかげのひと連なりの姿は、嘗められながら、どこか性的なエクスタシーへと押しあげられてゆくような気配を、濃密に漂わせている。

(二、銀色のなめくじ)のあらすじは、なめくじが、とかげを騙して嘗め殺し、読者はそんななめくじに嫌悪感を抱かせるようになっている。やがてそんな、なめくじも雨蛙と相撲を取ったところで塩をかけられ、溶かされてしまう。「蜘蛛となめくじと狸」には、他にも意地悪をした蜘蛛や狸が不幸な最期を迎えるはなしがある。
つまり、この話しのメインテーマは、不親切をはたらいたものが死をもって償う因果応報だと思うのだがまさか性的な表現を含んでいるとは思わなかった。

子ども向けに書かれた宮沢賢治の作品だし、まさかと思って改めて読み直してみるとたしかにそうかもしれない。嘗める行為自体が直接的に性行為を連想させるのもあるが、最後にとかげが安心している様子は、心臓を溶かされる瞬間にエクスタシーへと至る過程を暗示しているかのようだ。

イカタコつるつる

本書では言及されていないのだが、そういえばと思い出したのに長新太「イカタコつるつる」という絵本がある。
イカとタコがスパゲッティを食べていると、自らの足がスパゲッティに絡まってしまい、「痛いけど美味しい」と言いながら自らの足を食べ続ける奇妙な絵本で、何年も前に読んだきりなのだが鮮烈な記憶が残っている。

まずタコという軟体動物がエロい(葛飾北斎「蛸と海女図」を連想させる)。しかも、自らの足を食べながら徐々に死にいたる”暴力”も結びつくのだが、痛みや死ぬ恐怖よりも、美味しいものを口にする快楽に負けて食べる行為を止めることができないというのも性的衝動を想起させる。

また、川端有子「子どもの本と<食>」からの引用で、こんなのがあった。

子どもの本における<食>はおとなの文学における<性>の代替であるといわれることが多い。

「イカタコつるつる」は幼児向けの絵本だが、大人が読むような漫画、映画、小説、などにおいても、食べることが主題となっているコンテンツは多いし需要もある。
とはいえ、直接的に性表現するコンテンツは社会的に大っぴらにしづらい。もし、食が性の代替え手段として機能しているのであれば、食欲と性欲の両方を刺激出来るからこそ、食をテーマにしたコンテンツが巷に溢れかえっていると想像出来る。
そういう意味では、漫画からドラマ化された「孤独のグルメ」などは、主人公の井之頭五郎の大食いする様子が、中年男性の旺盛な性欲のメタファーだと想像できて、なんだかちょっと可笑しい。

また、ビーガンでも無ければ、食べる行為は死んだ動物を体内に取り込むということだ。動物への暴力(死)に気づきにくい社会システムでは、人類の摂理として当然のこととして死を想起させることで、コンテンツとしての魅力が増すということかもしれない。

ペットと家畜(動物の可食性)と、近親婚について

エドマンド・リーチ「言語の人類学的側面ー動物のカテゴリと侮蔑語について」の引用より

食と性をめぐる「自己消費のタブー」とは、みずから可愛がり育てている動物をみずからの祭祀や儀礼には消費することなく、他者に提供することであり、また、みずからの愛する娘や姉妹をみずからが性的に消費することなく、他者に提供することである。
<中略>
この自己消費のタブーを仲立ちとして、はじめて他者に消費を委ねる義務が強制され、自己と他者のあいだには「財と女性の交換からなるシステム」が構築されるのである。

家畜として育てた羊などを食べるとき、自分の家で育てた羊ではなく、隣人の育てた羊を食べる事例が紹介されていた。
また、自分の子供や兄妹と性行為を行わないが、他人とは性行為をするということの問題について触れられていた。

どういうことかというと、ペットのような近しい存在を「食べる/殺す」ことには抵抗があり、親兄妹のような近しい存在とはセックスができないというタブーがある。

一般常識とされる価値観、ペットを食べるや近親婚への嫌悪感について、このようなタブーが共有されることによって社会が成り立っているのだということだと思われる。
つまり、食べ物を独り占めせずに、隣人と家畜を交換し合うことで円滑なコミュニケーションが生まれ、近親婚を避けることで、人類は異なる遺伝子をもった人間同士が種の多様性を持つことが出来る。

そもそもタブーなんてものは、育った環境によって構築されるもので、時代や国によっても異なってくる。しかも、幼少の頃から「それが常識だ」と刷り込まれているため、改めてタブーについて疑問を持つ機会も少ない。
とはいえ、なんらかの合理性があって形成されたものだと思うので、改めて説明されると確かにそうかもしれないと思わされた。

生花の語源が、神へ捧げる贄にあるということ

いけばなという。花をいける、とはいかなる行為なのか、いかなる心のいとなみなのか。いける、という。それが生ける、活ける、埋ける、逝けるといった一群の言葉たちを身にまとっていることは、きっと偶然ではない
生け花とは、花を生けるとは、いったいかなる行為なのか。もしかすると、花は植物の一部分であって、同時に、どこか植物ならざる、たとえば動物的な、ときにエロティックな表情をたたえた生きものの部位ではなかったか。それはあまりに、雌の獣たちの、また人の女たちの生殖器に似ている。

死者に花を生ける行為について、「美しい花を生けることによって死者の心を安らかにしている」のだと、ぼんやり考えていたのだけど、どうやらそうでもないらしい。
幸せの裏側には、不幸になり犠牲になる人がいる。そういう自然の摂理を直接的に行ったのが生贄だったとするならば、花はその代替として現代にも残り続けているのかもしれない。
そうして花を生殖器にみたてた性的表現が浮かび上がってくるのも、言われてみればそうかもと思わされるが、想像力がたくましすぎて笑ってしまった。

さらに、生贄とは生きたままの贄ではなく活かしておいた、死んだ直後のまさに死につつあるモノを贄として捧げていたともあった。
お供え物の価値として、死んで時間のたった肉体が食べるには美味しくなさそうなのは想像出来る。
では、なぜ生きたもままではないのか。それは贄が生きたままだと抵抗されて食べにくい、または贄が逃げ出す可能性があるからだろうか。

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「性と食」そうして、死(あるいは暴力)について、こういう本を読むきっかけでも無いと日常的に深く考えることが無いため、瞠目させられることがたくさんあった。
また、ある程度普及している文献などからの引用があって作者が考察しており、人間の脳の仕組みよる科学的根拠がどうこうという話しでもない。
そのため書かれていることが、そのとおりだと決めつけられるものでもなく、読者の解釈にゆだねられる部分も大いに残っているのだが、自分の経験値に照らし合わせ、思索して想像力を巡らすという意味ではかえってその方が読んでいて楽しいとも思う。

また、鴻池朋子の絵画「遭難」の一部を切り取った装幀も本書の雰囲気にあっていると思った。深い森の中を飛び交う不思議な生物、上半身は狼だが2本の後ろ足が赤いスニーカーを履いた少女の生足という、少し危うくて野性的でグロテスクだけども美しい印象を感じさせてくれる。

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