キトラ古墳~「四神の館」・明日香村に遺されたもの③
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前回に次は「キトラ古墳」へ向かうと豪語しましたが、古代史に関してはド素人なので実物の古墳を見ても何もわかりません。
ましてやこの日はさらに気温は上がり、暑くもなってきたので、キトラ古墳を体験できるエアコンが効いた「四神の館」へと向かいました。
きっと施設内は地味でショボいだろうと高をくくっていましたが、とんでもない!
とても分かりやすい画像や動画による展示が多く、入ったとたん思わず感嘆の声を上げたほどでした。
「キトラ古墳」とは
🍃日本で2番目に発見された壁画古墳
キトラ古墳は、7世紀末~8世紀初のものと推定され、かつての「藤原京」の南にあった皇族や貴族の墓地に属する小さな円墳で、その中央には、18個の凝灰岩の切石でできた石室がありました。
ちなみに高松塚古墳は、下段ー直径23m・上段ー18m・高さー5mの二段式の円墳なのでキトラの方が一回り小さいだけで、形も造られた年代もほぼ同じである上、壁画古墳であることも同様なのです。
昭和58(1983)11月、石室内の壁画である「玄武」がまず発見され、平成12年(2000)に国指定史跡、特別史跡に相次いで指定されました。
平成に入ってからの発見とは、私の感覚ではずいぶん最近の話だと思えます。
🍃キトラの由来
昭和47年(1972)の高松塚古墳発見の直後に、地元住民から近くに似た古墳があると報告があり、その時にはすでに住民たちの間で「キトラ」と呼ばれていました。
その名はどこからきたのか?
カタカナ表記なのも気になるところです。
現地の説明板によると、
①亀と虎の壁画から
最初に発見されたのが亀と虎の壁画だったから。
②住所の北浦から
古墳南側の地名が「北浦」なので、それがが訛って変化した
③方角から
この古墳が明日香村の北西方向に位置するため、四神のうちの北を守る玄武(亀)と西を守る白虎(虎)が描かれていた。
由来がいまだに確定していないため「亀虎」ではなく「キトラ」とカタカナ表記にしているそうです。
私はてっきり渡来系の人物が大きく関係してるかと思っていたのですが、まったく違いました。
それにしても1983年の発見から今年で41年目だというのにまだはっきりしないとは、どういうことでしょう?
発見時に名付けられたとしたら、由来は明確なはずですが、曖昧だということは、きっと太鼓判を押せない何かひっかかるものがあるのでしょうね。
🍃四神
天井石の隙間から泥土が流れ込んだため、「玄武」以外はっきりと判別できませんが、高松塚古墳にはなかった「朱雀」が残っているのは希少で、四神すべてが揃っているのはキトラ古墳のみなのです。
判りにくいので図案化されたもので高松塚古墳のものと比較してみました。
大きな違いが確認できるのは、白虎の向きが逆で北向きになっていることです。
その他は素人目には大きな違いは見られず、どれも躍動感いっぱいで玄武の亀の甲羅模様、朱雀の羽、白虎の毛並み、朱雀の羽、青龍の舌と下あごの表現などが緻密に描かれています。
🍃十二支獣頭人身像
キトラ古墳壁画の一番の特徴は、人物像は描かれていない代わりに、頭は動物、体は人間という十二支を表現した獣頭人身像が描かれていることです。
これは葬られた人の魂を守る意味で古代中国では十二支の人形(俑)を置きますが、キトラ古墳ではこれらを壁画として描いています。
ただし、手に武器を持っているのは中国のものには見られず、朝鮮半島に見られる特徴だとのことです。
「四神」といいこの「十二支像」といい、中国や朝鮮のなどの東アジアに見られる壁画と共通点が多いのは、単にシルクロード経由で交流があったことも伺えます。
それだけではなく、この辺りは古代には「檜隈」と言われ、渡来人が多く住んでいた地域で、集団で絵師や技術者も渡来系のによるものだったようです。
だとしたら、そもそも被葬者が渡来人なのかもしれません。
被葬者は天武天皇の皇子である高市皇子、高官の百済王昌成、古墳周辺一帯の「阿部山」という地名から右大臣の阿部御主人など、様々に憶測されています。
副葬品や装飾などの豪華さから、かなり身分の高い人であるのは確かですが、皇族なのか貴族なのか有力豪族なのかもわかっておらず、この地に住み着いて有力豪族として権勢をふるった渡来人の可能性もあるかもしれません。
☝アハ体験4
そういえば、私の紀行の裏テーマである渡来系民族の「秦氏」ですが、京都の松尾大社、大阪の四天王寺と同じく、この飛鳥にも渡来系民族の足跡がこんなにもあり、その影響力は思った以上に大きいようだ。
もしかして古代の中国・朝鮮は日本人の祖先そのものなのか?
🍃丸い本格的な天文図
高松塚古墳の天文図より進化した「天文図」が石室の天井にあります。
同心円の中に満点の星と星座が描かれ、西洋式の現代のものとは違い、中国や高句麗のものに酷似した東洋式のもので、今のところここまでの本格的天文図としては最古のものです。
しかし、石室天井の限られた狭いスペースに、広い宇宙空間に存在する実際の星図は収まらず、構成し直されたもののようで、観測年代の特定ができないため、まだまだ謎の多い図ではあります。
それでも約360個の星を朱線で結び、74座の星座が確認が確認できるので、これらの星座の多くは現在のどの星座かをほぼ推測することができ、「外規」「赤道」「内規」、「黄道」の4つの円を描いた円形星図は天文学的に大きな意味があり、古代の星図を知る上で世界的にみても貴重な壁画なのです。
縮小版にデザインされたとはいえ、基本的に精巧な図なのはすごい!!
上記の全ての石室展開図は以下の通りで、高松塚古墳と同じく石材は凝灰岩、北西約14キロの二上山から運ばれたようです。
二上山も小学校の遠足で行きましたが、何があったのやらまったく憶えてないわ💦
現地にあった石室の立体空間をわかりやすくした15秒の動画です。
貴重な壁画を保存するために
※以下は現地の説明パネルの内容を私なりにまとめたものです。
🍃壁画取り出しに
専用道具を開発
内部の状態を保つため極力外気を入れないよう、小さなカメラを入れて様子を探ることから始めました。
・第一次調査(1983年)
ファイバースコープで「玄武」を発見
・第二次調査(1998年)
上下左右に向きを変えるCCDカメラで「青龍」「白虎」「天文図」を発見
・第三次調査(2001年)
デジタルカメラで「朱雀」「十二支獣頭人身像」を発見
壁画はもろくて大変デリケートなので、このままでは近い将来には崩れ落ちてしまう恐れがあり、石から壁画のある漆喰を剥がして別に保存しなければなりません。
それに向けてさらに実験と研究を重ね、手作業で剥がしたり、簡単には剥がせない部分のために「ダイヤモンドワイヤー・ソー」という専用の道具を開発して、壁画の取り外しに成功しました。
取り外した壁画は1,143片にも及び、細心の注意をはらって修理と強化処理をした上で保存管理し、奈良文化財研究所がそれらの研究や今後の公開なども検討しています。
貴重な古代の文化財はそのままでは保存できません。
今回の壁画取り外しは次世代の技術進歩にも対応できるよう、オリジナルへと簡単に戻せるよう最大限に配慮したそうです。
もしかしたら今後の技術進歩により、現在では発見できなかったものが見つかるかもしれませんね。
【参考】
・キトラ天文図の観測年代に関する「謎」
・明日香歴史公園
・四神の館
・高松塚古墳壁画の世界(現地にて購入)
=明日香村に遺されたものシリーズ=
①日本史の始まりの地
②高松塚壁画館
④石舞台古墳
⑤聖徳太子誕生の地「橘寺」
⑥日本初の本格寺院「飛鳥寺」
⑦ご本尊は最古最大の塑像「岡寺」
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