泣くは人生 笑うは修行 勝つは根性
※記事中の人名は敬称を略しています
花登筐を思い出して
久しぶりに河内の郷土史「あしたづ」を読み漁っていると、その第十号に興味深い記事を見つけました。
それは、司馬遼太郎と花登筐をそれぞれ「一日図書館長」として地域の図書館に招いたというものでした。
お二人とも日本を代表する大作家でありながら、快く地方の図書館からの招待を快諾され、とても有意義な機会に恵まれたと書かれていました。
司馬遼太郎は言わずと知れた大阪出身の文豪である事は、全国的に知られていますが、花登筐は、大阪ではなく滋賀の出身だとは、とても意外でした。
それどころか、今の若い世代には聞いたこともない名前かもしれません。
しかし我々以前の世代には、大人気脚本家として一世を風靡したことはあまりにも有名なのです。
昭和30年代の上方喜劇の立役者である彼の作品の数々を思い出して、記事にしてみようとメモ代わりに下書きに保存していたのです。
そう思っていたら、先日、おりーぶさんが過去記事にコメントで花登筐に触れられ、これにも触発されてしまいました。
コメント内にある新珠美千代の「細うで繁盛記」をはじめ、
西郷輝彦の「どてらい男」1970年
志垣太郎の「あかんたれ」1976年
ミヤコ蝶々の「ぼてじゃこ物語」1971年
(主演の三田佳子よりミヤコ蝶々の方が印象強い)
などなど、船場言葉が中心の大阪商人のド根性物語を描いた物語に、子供心に夢中になった思い出があります。
そんな懐かしい花登筐に関してまとめてみました。
※「あしたづ」とは主に大阪府東部・河内の郷土誌です。
独特なペンネームの由来
花登姓について
昭和3年(1928)生まれで、近江商人である川崎家に生まれ、善之助と名付けられます。
しかし花登家へ嫁いだ姉の養子となったことで花登姓を名乗る事になりました。
実はこの「花登」という名字も当時から個性的な名前なので、ペンネームだと思い込んでいましたが、本名だったのですね。
花登姓は、全国で約230名存在し、ランキングでは19,590位ですから、なかなかレアです。
「筐」について
「筐」は本来、音読みでは「きょう」「こう」、訓読みでは「はこ」「かご」と読むのですが、どうして「こばこ」としたのでしょう?
調べている過程で「筐体」という言葉に到達しました。
なるほど!小さい箱の事を指すのですね!
さらに調べると、2通りの字がありました。
Wikipediaなどでの「筐」はつくりの部分が「玉」となっていますが、
「筐体」では、つくりの部分が「王」なのです。
点のあるなしの違いを発見し、いったいどちらが正しいのかと新たな疑問が湧きました。
意味の元である「筐体」から考えてみると、やはり本来は「王」が自然でしょう。
つくりの部分が「玉」だと音読みで「きょく」となるので、ネット上のサイトが間違っているとおもいきや、「玉」であっても許容範囲で間違いではないそうです。
このあたりが曖昧でややこしいのですが、本当の意味での正解は「王」である「筐」でしょう。
弟子たちが引き継いだ上方のお笑い
直弟子は花紀京
直弟子に花紀京の名をを見つけて、思わずほくそ笑んでしまいました。
漫才師・横山エンタツを父にもち、岡八朗らと共に吉本新喜劇の中心的存在となり、会話でのボケ役の間の取り方が絶妙で、秀でた芸風を振り返ると、あの時こそが新喜劇の絶頂期だったように思います。
関西大学在学中に麻雀仲間の一人としてプロ級の腕を持つ花登筐と知り合い、やがて弟子入りとなりました。
そしてその花紀京の弟子で花登の孫弟子となるのが、
・レツゴーじゅん
・チャーリー浜
・間寛平
新幹線作家
花登の執筆量は月に原稿用紙2000~3000枚、生涯に発表した脚本の数は6000本を超えるという驚異的なものでした。
一日に置き換えると原稿用紙平均83枚、33,300文字に達します。
移動中の新幹線の車内でも執筆していたので「新幹線作家」、あるいは「カミカゼ作家」とも言われていたといいます。
この仕事量をみるだけで、花登はどれだけの人気作家で当時の喜劇を牽引していた事がわかります。
彼の作品は、人間の成長過程を山あり谷あり、笑いあり涙ありの展開に、私を含めた当時の大衆は大いに共感し、人気を博しました。
名言は後世の若者へ向けて
さてタイトルの言葉は花登筐のものです。
泣くは人生
笑うは修行
勝つは根性
ご本人直筆の色紙が掲載されていたのですが、決して達筆とは言えないけど人間味のある字ずらは、文言にピッタリと合っています。
本書には意味までは載っていませんが、その作風から私は次のように思います。
人生には辛いことのほうが多く、泣く事もいっぱいあるだろう。
人より輝くためには、その苦しく辛い事を修行とし、ポジティブに捉えて笑うことだ。
最後に勝つのは、あきらめない根性でひたむきに取り組む者である。
「根性」とか「修行」とかが登場するあたり、いかにも昭和っぽさは拭えませんが、今の若い世代にも読んでもらいたい名言です。
彼が生むストーリーには、どんなに不利な立場であっても、努力は必ず報われるというメッセージが基本にあり、逆境を乗り越えて最後には夢を達成するという痛快さに溢れていました。
昭和33年(1958)にデビューして、劇団を立ち上げて大村崑・芦屋雁之助などの喜劇俳優を輩出するも様々な苦難を乗り越えつつ、昭和58年(1983)に55歳で没するまでの25年間は、短いながらも華ある人生であったはずです。
この言葉は、彼の人生経験がそのまま凝縮されたもののようで、かみしめて読み直すと、とても胸に響くものがあります。
【参考文献】
・名字由来net
・らくらくし
・Wikipedia
トップ画像はフリー写真のACよりDL