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一千年の時の流れを無意味にしないために

「今から一千年の昔、紫式部は、『一千年先の未来』というものを、一体どのようにとらえていたでしょう?恐らくは、ほとんど『絶望』に近いような思いで、『動きようのない、変わりようのない人の世』というものを考えるしかなかったことでしょう。でも、もうその一千年は、経ってしまいました。」
──橋本治『源氏供養』下巻

古典不要論もある今、古典を読む意味は何でしょうか?

古典を読むことは、それが書かれた当時の人々の価値観や考えの道筋を知ること。つまり、考え方の多様性に触れることであり、同時に、言葉や表現の豊かさを知ることに意味がある、と橋本治は「古典を読んでみましょう」に書いています。
では、源氏物語を読む意味は?

橋本治は“光源氏最愛の女性”紫の上の物語を通してそれを炙り出していきます。紫式部が書いたこと、書けなかったこと、書きたかったことに加えて、一千年の時間が経ったことの意味についても。

「『源氏物語を読む』ということは、それの書かれた時代を覆っていた、そういう『時間に関する認識』を引き受けることです。
その時代から一千年も経って、我々は、その時代よりも少しは賢くなって、その時代よりももう少し確かに、『人の立場』というものを思いやるということが出来るようになっている─そうでなければ、やってられませんね
今から一千年前に書かれた、『物語』という形をした認識の書を読むということは、恐らく、そういうことを知ることなんです。」(同上)

「彼女(=紫の上)は、すべての身分ある女性が『御簾の中にじっとしている』のが当然だった時代に、自分の足で『走って出て来た少女』だったのですから。
『少女は少年のようであってもいい』という前提は、この幼い紫の上の出現によって、一番初めからクリアーされているのです。
彼女は、『走ることを許されていた少女』だった。そしてしかし、その幼い紫の上は、どうなったでしょう?」(同上)

「『雀の子が逃げたの!』と言って、自分の足で走り出して来た少女には、すべてが許されて、しかしその少女には、『少年のように走り回る自由さ』だけは、なかったのです。
彼女の前にあった『未来』は、男というものの訪れを待つために設けられた、『御簾に囲まれた美しい御殿の一角』だけで、『その足で自由に走り回れる豊かな空間』はなかったのです。
光源氏に引き取られた幼い紫の上には『すべて』があって、しかし『その未来』だけは、断じてなかった。
『雀の子が逃げたの!』と言って走り出す少女の物語─《若紫》の物語を書いて、その作者が、一旦その物語の筆を止めたのかもしれないというのは、その時代に、『走る少女の物語』などというものがありえなかったからかもしれません。」(同上)

「その作者には、遂に『走って行く女の物語』だけは書けなかった。その時代、少女はある瞬間だけ走ることを許されて、その後には絶対にそれが許されなくなってしまう。
でも、もうその少女は、自由に走り回ることが出来るのです。紫式部が絶対に選ぶことが出来なかった物語の『その先』は、その時代が一千年経って、もういくらでもあるのです。そのように、『前提』は変わってしまっているのです。
だから、『その前提をどう活かしたらいいのだろう?』ということを考えなければ、この一千年の時の流れというものは、無意味になってしまうということですね。」(同上)


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