実朝クンのこと〈橋本治読書日記〉
三谷幸喜脚本による「鎌倉殿の13人」での源実朝は魅力的だった。優しく柔らかく、でも強烈に現代の私たちの共感を呼び得るキャラクターと言える。
現在に続く坂本龍馬のイメージを作ったのは司馬遼太郎の小説だという説もあるけれど、もしかしたらその龍馬のイメージに匹敵するくらい強い印象と人気を得ているのではないか。変な言い方だが、この実朝は長く生きる、と思った。私を含め「鎌倉殿」を熱心に観ている人が今後実朝を想起するとき、「鎌倉殿」の実朝のイメージを払拭するのは難しいだろう。
橋本治も古典の入門書で実朝について書いている。あの時代にいた“現代人”の例として。
おそらく、「鎌倉殿」の実朝が魅力的に感じるのも、現在の私たちにとって彼が“現代人”だと感じるからだ。
面白いのは、橋本治が本に書いていた実朝の現代人性と「鎌倉殿」の実朝から感じる現代人性は、言葉は同じでもイメージに差があるところ。あの有名な「われて砕けて裂けて散るかも」の解釈のニュアンスも違う。
「鎌倉殿」の実朝が好きであればあるほど橋本治の実朝の解釈は受け入れがたいかもしれない。反感を覚える人もいるかもしれない。もちろん、正解はない。実際の実朝を知ることができないので、どちらも違うんだろう、たぶん。ただ一つ言えることは、何百年も経ったあとの人間が個人的な感情をつい投影してしまうのが実朝という人なのだ。身内のしがらみによるストレスの多さかな…。
私は「鎌倉殿」を観るより先に橋本治を読んでいたので、「鎌倉殿」の実朝にドップリはまるというより、描かれるイメージのギャップを楽しんでいた。ギャップがあるのに、その都度その当時の現代性が投影されて全然違う人のように感じられるのも興味深かった。実朝の描かれ方によって、逆にそのイメージを作り出している側が鏡のように浮かび上がるように思えて。
ついに『ひらがな日本美術史5』を読み終わってしまった。大げさな言い方をしたのはなぜかというと、ついに、読み終わった本のまとめを書く前に次の本が読み終わってしまったからだ。
思えば『ひらがな』ははじめから嫌な予感があった。読むのが楽しい割に全然書けない。言い方を変えると、日本美術史という、歴史と格式あるジャンルを前に怖じ気づいているのだ。いつも、読み終わるたびに「どうまとめりゃいいんだ?」と思う。小説だとある程度自由度があって、書くのもまとめるのも比較的楽だ。でも日本美術史って、書かなきゃいけないことがたくさんあって、それを自分が押さえられているとは到底思えない。自由な感想を書くととんでもなくトンチンカンなことを書いてしまいそうで、怖い。だから、実はやっとこさ書けた3巻までだって、自分が本当に面白いと思えた部分については書けないままだったりした。まァ、記録を書くと言ったって、誰からも待たれてるわけではない、自分だけのルールではあるけれど。
でも悩んだときの指針になるのは、いつも、読んできた橋本治の言葉なのだ。何度もページをめくり返せば、そのうちに見えてくるのは経験で分かってる。見えて来ないのは、「読めてない」だけ。読めてないなら、何度も読むだけだ。
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