“父親”と“常識”の解体─橋本治『蓮と刀』
橋本治の著作のうち、小説のジャンルで最も重要なのは『桃尻娘』シリーズです。では評論でのそれはと考えると、この『蓮と刀』と言えるでしょう。
冗談かと思う人もいるかもしれませんが、この本で橋本治が書いているのは「男は男と寝るべきである」ということ。比喩ではなく、直球で論じているのが本書です。
橋本治はなぜこんなことを書いたのでしょうか?
書かれたのは1982年。同性に好意を寄せることをカミングアウトするのは今だって簡単にはできない世の中なのに、それを何段階も飛び越して男は男とセックスするべきだと論じる本を書いた。今よりももっとずっと偏見に満ちた世の中に向けて。
(飛び越してる部分は、セックスが微塵も出てこない『恋愛論』にある。)
私はそれがどんなに覚悟と勇気を必要とすることなのか、想像もつかない。この本を世に出すということは、書くことによって生計を立てる作家人生を賭けることでもあり、極めて個人的な意味の人生を賭けることでもあった、並々ならぬ決断の上にある本なのです。だから橋本治は退路を断って、そして自分の未来をも脅威にさらしてこれを書いたとも言えます。でも私は、やはり橋本治はこれからの未来を生きるためにこれを書いたし、書かなければならなかったのだろうと思います。
自分がこれから先を生きていくために。生きていける社会を作るために。心の中に住む17歳の自分を生かすため、そして橋本治のように生きづらさを抱えながら生きている人たちが、自分で未来を作っていくために。
男を愛する男がなぜここまで恐れながら生きているのか、その正体は、橋本治によれば“おじさん”ということになる。
家庭にも、学校にも、会社にも。どこにでもいる“おじさん”が社会を作って、彼らが作った“常識”によって排除され実害を被ってきたのが“マイノリティ”であり、本書に添って言えば男が男を愛することです。
結論を言ってしまえば、橋本治はもうおじさんなんか恐れるな、って言ってる。おじさん及びおじさんたちが縷々作ってきた常識を恐れるな、と。
それを言うために本書では、なぜこのような“常識”が作られるに至ったのか、歴史を遡って批判しながら論じます。“常識”がいつまでも続くしくみについても。そのスタートは、かの有名な精神分析界の父、ジークムント・フロイト。
(あぁ、『桃尻娘』で源一が父親に精神科に連れて行かれたことを思い出す....)
最後に出てきた“文体”。本書での重要なキーワードであり、橋本治は徹底的にこだわって選択した結果として“幼児語”を使っています。
結局のところ「おとうさんがこわい」と言い出せないまま大人になった男が“おじさん”。その大人の中にある抑圧を解体する手段としての幼児語、“幼児”を抑圧する“おじさん”に対抗するための幼児語、そして、男が男と寝るのと同じように、仲良くする手段としての幼児語。
橋本治が書いた『蓮と刀』によって、男が男を愛することがタブーであるという“常識”がいかにいい加減な土台の上に作られてきたかが解明されたと言えるでしょう。
顔色を窺うべき父親なんかどこにもいない。橋本治はこの本を書くことで体を張ってそれを証明してみせた。父親がこわい、でも言い出せないような人間は世の中に溢れている。それは本書後半でゲイ雑誌の投稿欄を分析しながら示されます。
いると思わされてきた父親も、あると思わされてきた常識も、実はどこにもない。解体しよう、勇気を持って。
「勇気を持て」と言う橋本治自身が、身をもって勇気を示しているのがまさに『蓮と刀』という本です。「男は男と寝るべきである」と言うことによって、幼児語を使うことによって。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?