知性は、「頭がいい」とも「勉強ができる」とも違います。
知性とは「負けない力」、それを具体的にイメージしてみましょう。
立って両手を伸ばしても縁に手が届かない穴の中に落ちている自分を想像します。
「どうすればいいかな?」と自分で考えるのが負けない力=知性です。「答えは自分の中にある、だから自分で答えを引き出さなければならない」と思うのが知性。
であると書いてあります。
ここで見逃してはいけないのが「思われている」で、誰がその判断をしているのか、逆に「役に立つ」と思われているのが何なのかについて、この本の大半は語られます。これは「知性というものが崩れて力を失って行くそのプロセス」である、と文庫版あとがきで書かれています。
知性は、成績のように数値化できたり、教養のように範囲が決まっていて評価できるわけではありません。試験のように出題範囲があるものでもなく、コンピュータのように答えを見つけることよりも、問題を発見することのほうに知性は表れます。そのうえ、モラルやマナーというものまで含んだ複雑なものでもあります。
知性について重要なことは、知性のある人は「私には知性がある」などとは言わず、知性があるかどうかは他人が決めることで、自分の決めることではないことです。
あの人にあるのは“そういう”知性で、それは私にはない、そのような関係性の中にあるのが知性です。
知性にいろいろな種類があるのはなぜかといえば、知性をもって解くべき問題が人それぞれだからですね。はじめの穴の例を使えば、落ちてしまっている穴は人それぞれ違うということだ、と私は理解しました。
そもそも人間が考える能力があるのは何のためでしょうか?知能や知性は人間にとって何のためにあるのでしょうか?
考えるのは、一人ですること。でもそうすると「自分対全世界」という考え方になって、行き詰まる。知性とは、「人と話し合うことが出来る」ことでもあり、