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キリスト教2世、仏教(メシ)の旅。

※写真は最近の我が家のごはん。
 仏教メシというタイトルなのに、命をいただいたご飯の画像しかなく…。


まえのnoteで、私はそもそもキリスト教の教え自体に興味がなかったんだという話をしましたが…。


ただそんな私も、実をいうと、
「宗教の(悪)影響は、他の宗教の考えで薄めなければいけないんじゃないか」
「(親に押し付けられたとはいえ)宗教を追い出した穴は、別のマイルドな宗教で埋めなければ…」
と思い込んでいたところはありました。

背景には、
「宗教や哲学に興味のない人間は低俗なのだ」
という、今思うと超差別的な思い込みがありました。
主に母親から、また教会の人たちとの関わりを通して、そんな空気を吸いこんできた影響だと思います。


とはいえ前のnoteで書いたように、私は元々、「宗教や哲学に興味津々」という人間ではないのですよね。そんな私が「他の宗教」を求めさまようと、どうなるのか…。
今日はそんなお話です。


1.仏教の曹洞宗に興味を持った理由

1-1.私が当初すがりついた、父方ルーツの宗教

私がキリスト教から、気持ちの面で離れたいと思ったときに学んでみようと思ったのが曹洞宗でした。父方が曹洞宗の檀家で、当時の私の認識では「父方の人たちは、母方よりは、まだマシ…」というものだったからです。

そこで当時の私は「まだマシ」な自分のルーツから、何か得られないかと探ってみることにしました。

今となっては、父方も陰湿なあれこれを含んだ家でした。父方親族に会いたい気持ちが湧いてこないのは、まあそういう人たちだったよなと…。
ただ治療をしていた当時の私には、自分が根無草であるような頼りなさと心細さが、切実につらかったのです。

虐待サバイバーがトラウマ治療を受けるときのしんどさの一つに、
「親の酷さが、これでもかとハッキリ分かってしまう」というものがあります。

うわあああ、私のルーツ、本当に酷いわあ…というショック…。
その気づきが自分に跳ね返ってきて、自分をも改めて損なうような感覚…。
トラウマ治療、通りすきれば楽になるけど、ぶっちゃけ「癒し」とは程遠いです。


何かしら、自分のしんどさを癒してくれる「泉」のようなものが欲しかったんでしょうね。どっか、私のルーツのなかに、まともな井戸はないだろうか…そんな感覚でした。

私がその候補にしたのが、曹洞宗だったというわけです。


1-2.精進料理の基礎を築いたのが、道元(曹洞宗の開祖)だったから…

とはいえね…宗教トラウマを抱える身なので、お祈りとかはなるべくやりたくないんです。
そんなとき、曹洞宗への興味から道元についての本を読んでいて、知ったことがありました。

「道元が、精進料理の基礎を作ったらしい」
「曹洞宗では、食事を作ることも食べることも修行らしい」

いいじゃん、この生活密着感!!
感動した私は、まずはどんなものかも精進料理のレシピ本を買ってみて、
「長芋でつくる蒲焼き(うなぎの代わり)」
とか作ってみたりしてました。結構これ、美味しかったです。

(ただ私は、今も以前もビーガンではないし、動物性タンパク質は大事だと思って生きています。)


1-3.ふつうの食材をご馳走にしてしまう「精進料理」

その後「遠いけれど、なんとか時々行けるかな」という距離に、お寺主催の精進料理教室を見つけ、何回か通ったこともありました。


強力粉から生のお麩を作ったり、胡麻豆腐作ったり(ミキサーは使ってました)、ザ・精進料理な体験をしました。

作りたてのお麩、ビックリするくらい美味しいんです。感動してお土産に持って帰って夫に出したら、夫も「麩って、こんなに美味かったっけ…」と驚いていました。
むかごの炊き込みご飯や、そばがき(蕎麦粉を使ったもの)のお汁粉も、本当に美味しかった。

ただ個人的に一番感動したのは、えのきだけの根元を切って、天ぷらにしたもの。
貝柱の天ぷらの代わりだったようで、えのきってこんなに出汁があるの!?とびっくりしました。

精進料理がすごいのは、ごく普通の食材を「ご馳走」にする技を色々持っていることだと思います。

私が曹洞宗に帰依することはありませんでしたが、料理を修行の一つに入れてくれた道元さんには個人的に感謝しています。

なぜ帰依しなかったかというと、父方祖父が、
「坊主は金を取るばかりで、家族を亡くした人間の心の面倒を見ない」とぼやいていたのを思い出したと…。
(精進料理を教えてくださった先生は、魅力的な方でした。キリスト教の聖職者とお坊さんの雰囲気のちがいを何となく感じ取れたのも良かったです)

何より私の興味が、精進料理から和食全般へと向いたからでした。

精進料理だとお魚の扱いが分からないなあとか、そんなことを考えるようになりました。
「尊い教え」よりも、食い気。私はそういう人間だったということなんです。


2.そして、食べる営みは、つづく…

その後の私は、和食をちょこちょこ勉強しつつ…でも、それも妊娠出産で中断しつつで今に至っています。

作ってみたいものを伸び伸び作れていたのは妊娠前までで、
(夫も、よく付き合っていた…)
今は子どもが食べてくれそうなもの、子どもたちの守備範囲が広がりそうなものを中心に作っています。

子どもがなかなか食べてくれなかったときはしんどかったです。
ただ工夫が必要な状況は、まあ伸びしろだよね…と思う自分もいて、妊娠前とは角度を変えて、楽しく毎日チャレンジしています。

トラウマ治療中は、心理士がいわゆる「私が世界を探索し直すための安全基地」のような役割を果たしてくれていたのもあり、あちこちの分野を見て回りました。


続かなかったものばかりでしたが、食べるという営みだけは、望む望まないに関わらず続いています。
特別な趣味のように、お金をかけなくても料理はできるから、そこも個人的にはありがたかったです。


そんなわけでキリスト教2世だった私は、仏教(メシ)のたびに出たあげく、食い気に目覚めてしまいました。
しまいには仏教さえもどっかに行ってしまい、日々の料理で生活にハリを感じれるという「お得体質」になりました。

単純に、それは良かったかなあと思います。
もともと宗教への興味が向きにくい人間に、宗教が根を下ろすのは不可能なのかもしれません。

「まあ、それでいいじゃん」というのが、今の私です。


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