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短編『何も気にならなくなる薬』その284
続けたら何かしらになるのではないか、そんなことを考えている人達が「毎日投稿」という肩書に満足している。
できる人達にとってはそれは当然でもあり、またそれに言及している私は現にできていないのが事実だ。
でもそれは辞めた途端に価値を失う諸刃の剣ではなかろうか。
他人にアレコレいう私もその〜と回数を書くことで満足している節がある。
皆が皆、自分のなかで満足する方法を見つけて程よい空間にしている。
言ってしまえばぬるま湯だ。
中身が伴っていないことが殆どだ。
毎日やることなんてのはラジオ体操を真面目に毎日やってスタンプを貰う子供の延長ではないか。
それを真面目にやってきた人達が大成功を治めているという証拠でもあれば納得はするだろうが、結局は自己満足でしかない。
やったうえで何かしらの経験を得られなければ、それはただの作業でしかない。
この時間で、この内容で、このタイトルで、この書き方で……etc
こうして見える場所に書くからには、何かしらの反応が欲しいというのが人の本性だと私は思う。
ならそれに見合うものを書かなくちゃいけないのが辛いところだ。
敷物
自己
中身
あの頃のスケッチブックは今や鍋敷きに成り下がってしまった。
それでもまだ視界の隅に置いていることを考えると、私はまだ未練があるのだろう。
鍋の中身はたしかに温かい。
しかし、鍋敷きになっているスケッチブック、私の絵への情熱は再び熱を帯びる様子はない。
思えば色々なことに言い訳をしてきた。
性別、年齢、家庭、そうした物をあえて武器にして活躍している人達もたくさんいる。
それを卑怯だという人もいるかもしれないが、私からすればそれは理不尽にも幸運にも与えられた物なのだからどのように扱うのかは当人次第だ。
なら、私の言い訳は何だろうか。
今すぐに筆をもってスケッチブックを開くべきなのだ。
しかし、鍋を食べないことには開くことができない。
鍋を食べた後に開こう、そんなふうに後回しにしてきた私の弱さが本当の原因なのかもしれない。
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