岩波少年文庫を全部読む。(22)いちばん有名な第2作 ヒュー・ロフティング『ドリトル先生航海記』
語り手トミー・スタビンズが名乗りを上げる
『ドリトル先生アフリカゆき』の続篇。
この第2作から、語り手のトミー・スタビンズが登場します。語られるできごとが起こった時代、彼はまだ少年で、靴屋の一人息子でした。
「はじめのことば」(これも本文の一部)でトミーは、前作『ドリトル先生アフリカゆき』も先生の許可を得て自分が書いたと言っています。つまり自分が出会う前の先生の冒険も(3人称で)書いていたわけです。
トミーは本書で初めて名乗りを上げてはいても、すでに第1作から語っていたというわけです。本シリーズの他の作品もそうだとすると、3人称で書かれた作品もじつはトミーが語り手だということになります。
世界一周ダーツの旅
〈私〉トミーは猫用肉売りのマシュー・マグの紹介でドリトル先生と出会います。保護した栗鼠の手当をお願いするためです。先生の異能と人柄に感服したトミーは先生に私淑し、住みこみの助手となります。その後アフリカから鸚鵡のポリネシアとチンパンジーのチーチーが帰ってきて、〈私〉はポリネシアに弟子入りして動物語を学びます。紫極楽鳥のミランダがアマゾンから訪れ、北米先住民の博物学者ロング・アローの消息不明を告げます。
先生は目を閉じて地図帳を鉛筆で突き、当たったところに出かけることにするのですが、これは日テレの『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』の「日本列島ダーツの旅」のグローバル版ですね。行き先となったブラジル近海クモサル島はロング・アローが消息を絶った地点(ご都合主義か、運命か)。
操舵に必要な人員である世捨て人ルカはメキシコ時代の殺人容疑で裁判の直前。先生はルカのブルドッグ、ボッブの証言を通訳してルカを無罪にしますが、その祝福騒ぎでルカを連れ出すことがかなわず、オックスフォード留学中のジョリギンキ王国バンポ王子(前作参照)をリクルートします。
数々の冒険を経て船は目的地そばで難破し、船のないまま一行は浮島クモサル島に流れ着きます。一行はロング・アローを救出し、島の南下による気温低下を住民に火を起こす方法を教えることで回避、鯨群に島を赤道へと押し戻させます。島内の戦争を集結させた先生は島の王に選出されます
自覚せざるパターナリズム
このあたり、リンドグレーンのピッピ3部作完結篇『ピッピ南の島へ』のピッピの父エフライム船長がクレクレドット島の王として君臨してるのに似た有色人種蔑視を感じます。ちなみにドリトル先生ものの前作は1923年、本書は1928年と、リンドグレーンが作家になる前にスウェーデン語訳が出ています。
『ピッピ南の島へ』の回でも書きましたが、本書には作品の時代ゆえに、植民地的パターナリズムが色濃く残っています。クモサル島を文明化しつつある先生は、終盤、鸚鵡のポリネシアに帰国を慫慂されて、これをつぎのようにいったん断るのです。
これについて小説家・英文学者の南條竹則はこのようにコメントしています。
シリーズ第2作にして看板作品
そうはいってもこの作品がシリーズの看板作品であることに間違いはありません。最初に日本語に翻訳されたドリトル先生がこの作品だと言われています(井伏訳より10年以上前)。
それは、楽天的な冒険の連続と、夏目漱石の『こゝろ』(1914)の語り手さながら先生に心から私淑するトミーという語り手の起用による先生の人柄の魅力の強調によるものでしょう。
経営学者の池田正孝(まさよし)中央大名誉教授は、本書についてこのように回想しています。
もちろん、井伏鱒二の名訳(河合祥一郎の新訳の「訳者あとがき」にもあるように、不正確な部分もあるにはありますが)の力があるのは間違いありません。
僕は自然人類学者の長谷川眞理子・総合研究大学院大教授の文章が好きなのですが、彼女は自身の文章のルーツを、小学校4年生のときに読んだ本書に求めています。
井伏訳のパフォーマンスに着目して読むのもまた乙なものです。では次回、第3巻『ドリトル先生の郵便局』でまたお目にかかりましょう。
Hugh Lofting, The Voyages of Doctor Dolittle (1922)
挿画も作者による。井伏鱒二訳。巻末に舟崎克彦「英国づくし」を附す。
1960年9月20日刊。2000年6月16日新装版。
ヒュー・ロフティング、井伏鱒二については『ドリトル先生アフリカゆき』評末尾を参照。
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