岩波少年文庫を全部読む。(23)「オシツオサレツ」というフレーズの妙 ヒュー・ロフティング『ドリトル先生の郵便局』
(初出「シミルボン」2021年3月4日)
ふたたび、スタビンズ誕生以前の物語
『ドリトル先生航海記』に続くシリーズ第3作。
刊行順では第3作とはいえ、「まえがき」(作者ロフティングではなく、前作で登場した〈私〉こと記述者トミー・スタビンズによるもの)によると、作中の時間軸では、これは第1作『ドリトル先生アフリカゆき』の直後の物語ということになります。
つまり本書は、先生がスタビンズと出会う前の話を、スタビンズが先生から(そしておそらく動物たちからも)聞いてまとめたもの、ということになります。
ちなみに前作『航海記』でも、第1作『アフリカゆき』が鸚鵡のポリネシアから聞いたことをスタビンズが記録したものだった、と明かされていました。
本シリーズ前半6作のうち、第3作の本書と続く第4作『ドリトル先生のサーカス』、そして第6作『ドリトル先生のキャラバン』はこのように、第2作以前の時代の物語です。
語りの人称と枠物語
そういうわけで本書の本篇に〈私〉は登場人物としては出てこず(生まれてなかったはず)、しかし〈私〉の父である靴職人ジェイコブ・スタビンズと先生との交友が言及され、その場面は1839年のことだったとされています。
なお、本書にはこの年号のほかに、世界初の郵便切手ペニー・ブラックの発行や18世紀末の画家ジョージ・モーランド(1763-1804)などの歴史上の対象が指示されますが、作中の他の情報、あるいはシリーズの他の巻の情報とのあいだにしばしば齟齬をきたしています。
前述のようにロフティングは、シリーズ前半の各作品を、スタビンズによる1人称の語り(第2作、第5作)と、スタビンズが局外の語り手となった実質的にはいわゆる「3人称」の語り(第1、3、4、6作)とに振り分けました。
このうち第1作はそれ自体を読むと通常の「3人称」の語りであって、それが同シリーズのべつの巻の作中人物でもあるスタビンズによって執筆されたものであることは、続篇においていわば後づけで設定替えをなされたもの、ということになります。
さて本書『郵便局』は、スタビンズが堂々と誕生前のできごとを語ることになった作品であるわけですが、本シリーズで今後見られるようになっていく語りの新機軸がもうひとつ、本書で登場します。
それは、枠物語構造です。本書は4部構成ですが、その第3部で、北極圏の動物たちを対象とした月刊誌《北極マンスリー》を先生が考案し、読みものを月替りで掲載することになります。
先生、豚のガブガブ、家鴨のダブダブ、白鼠、犬のジップ、梟のトートー(トゥトゥ)、そして奇獣オシツオサレツが1話ずつ、自分の体験や見聞、またお伽噺を交替で語ります。
この第3部はですから、冒頭部を除いて7話の短篇がそれぞれ違う語り手によって語られたという体裁です。
以後本シリーズでは、この登場人物・登場動物の語りによる枠内物語の比重が、どんどん増えていくのです。
アフリカでのその後の冒険
話は前後しますが、本書のおもな舞台もアフリカです。『アフリカゆき』でアフリカから渡英した双頭の有蹄類オシツオサレツはホームシックになり、先生たちは転地と避寒を兼ねて西アフリカで休暇を取ります。
英国への帰途、一行は夫を奴隷商人ジミー・ボーンズに売り渡されてしまったズザナと遭遇。英軍艦と協力してボーンズの身柄を確保、ズザナの夫を保護します。
彼が奴隷にされた経緯には、アフリカのファンティポ王国の郵便制度の腐敗がありました。先生はファンティポのココ王に直訴、郵政大臣にとして郵便制度の見直しをはじめることになります。
先生はファンティポ近海に恐竜が棲息するジュラシックパークのような島を発見し、動物どうしで通用する動物文字を考案(神か!)、渡り鳥のネットワークを利用した国際郵便システムを考案し、ファンティポ港沖に停めた船の上に国際郵便局を創設します。
先生はこの国際郵便を活用に、先述《北極マンスリー》をはじめ通信教育など、全世界の動物たちを対象とするグローバルビジネスに乗り出します。
前作に登場したロンドンの雀、べらんめえ口調の下町っ子チープサイドのプレゼンスがぐっと大きくなるのもまた、本書の特徴です。
文化と翻訳と時代精神と
第1作『アフリカゆき』の下訳を担当した石井桃子の回想によると、Pushmi-Pullyuをどう訳すか、となったときに、
ちなみに角川文庫の河合祥一郎訳ではPushmi-Pullyuは〈ボクコチキミアチ〉となっており、他の訳者たちも違う名称をがんばって考案しているようです。
鳥が配達する郵便局というのは夢のある設定です。その原作の着想のみならず、訳者にも恵まれた本書にも、ファンティポ王国の記述など政治的にcontroversialともなりかねない記述が含まれていました。この点について、長谷川眞理子・総合研究大学院大教授はこう書いています。
本シリーズが途切れることなく数十年にわたって、ハードカヴァーと新書判の双方で現役読者に読みつがれ、また文庫版で新訳が刊行されるという日本の状況は、喜ばしいことだと思います。
もっともこの僥倖は、日本がアフリカに植民地を持っていなかったからだ、という話かもしれませんが…。
では次回、『ドリトル先生のサーカス』でまたお目にかかりましょう。
Hugh Lofting, Doctor Dolittle's Post Office (1923)
挿画もヒュー・ロフティング。井伏鱒二訳。巻末に大岡玲「ドリトル先生に教わったこと」(2000年春)を附す。後年の版では岩波書店編集部「読者のみなさまへ」(2002年1月)が加わる。
1952年6月15日刊、2000年6月16日新装版。
ヒュー・ロフティング、井伏鱒二については『ドリトル先生アフリカゆき』評末尾を参照。
大岡玲 1958年東京生まれ。父は詩人・大岡信、母は劇作家・深瀬サキ。東京外国語大学外国語学部イタリア語卒業、同大学院外国語学研究科ロマンス系言語専攻修士課程修了。小説「緑なす眠りの丘で」でデビュー。同作を収録した『黄昏のストーム・シーディング』で三島賞、『表層生活』(いずれも文春文庫)で芥川賞。東京経済大学全学共通教育センター教授。著書に『日本グルメ語辞典』(小学館文庫)『不屈に生きるための名作文学講義 本と深い仲になってみよう』(ベスト新書)、翻訳にコッローディ『ピノッキオの冒険』(角川文庫)、モーム『月と六ペンス』小学館《地球人ライブラリー》など。
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岩波少年文庫を全部読む。
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