著者は働くことを全面的に進めているわけでも、拒否するわけでもない。 ただ、働くことがイヤだという気持ちに向き合うこと、「理不尽な状態を簡単に割り切らずに見据えて、それに苦しむこと」を説いている。 働くことは時として無性にイヤであるが、淡々とその状況と向き合う中でしか出会うことができない感情に出会いたいと思う。 つづく。
「やるかやらないか」 日記調に。 最近何かをしたいと思い、取り組まないことが増えた。できる自由に対して、やらない自由も増えたように思う。きっとそれはそれでいい。その中で何をやるか、そこに今一度向き合ってみたいと思う。 そこには、予想を越えた偶然が待っているのだろうか。 つづく。
「高い山の裾野は広い」 数年前、浪人生として通っていた予備校の先生の言葉である。 今となっては、各授業で教わった内容はほとんど、というか、全て忘れてしまった。忘れてしまったというか、血肉化されたというべきか。各教科の知識は、大学受験を終えた段階でその役目を終えたのだろう。 けれども、冒頭の言葉のように、受験という枠にとどまらない言葉、どこかゴツゴツした違和感を感じる言葉。そういう言葉は大学に進学した後、徐々に存在感を増していくのであった。 「高い山の裾野は広い」 こ
これまでの人生はとてもよかった。 本を読んで、人と話して、服を楽しんで。 日記を通して考えたことを、アート作品に、小説に、論文に昇華したりもした。 けれどその中に、どうしても言葉にできないものがいつもあるように感じていた。 それでもぼくは、言葉を通して、言葉になり得ぬものを追い続けていた。いや、追い続けている。その営みを終えたわけではない。 けれど、言葉にできないものの存在が大きくなりにつれて、ぼくの関心は徐々にではあるが、言葉から身体に移行しているように感じている