やまボーイにぼくはなる。
これまでの人生はとてもよかった。
本を読んで、人と話して、服を楽しんで。
日記を通して考えたことを、アート作品に、小説に、論文に昇華したりもした。
けれどその中に、どうしても言葉にできないものがいつもあるように感じていた。
それでもぼくは、言葉を通して、言葉になり得ぬものを追い続けていた。いや、追い続けている。その営みを終えたわけではない。
けれど、言葉にできないものの存在が大きくなりにつれて、ぼくの関心は徐々にではあるが、言葉から身体に移行しているように感じている。
考えるにしても、本を読みながら、煙草をくわえながら、ではなく、歩きながら、動きながら。
唐突であるが、ぼくはシティボーイに憧れを抱いている。家族以上のつながりをもった洒落た友人。知的でチャーミングな恋人。服は親父や兄貴のおさがりと自身の審美眼を通してセレクトした古着を組み合わせる。食事はファストフードではなく、行きつけの喫茶店に、オーセンティックなレストラン、時に町中華。けれども時折マックを挟んだりするから憎い。家には、どうしたら思いつくのか、思わず嫉妬してしまう家具の組み合わせ、色の組み合わせ。コラージュのセンスはどの社会資本の中で育ったのだろうか。
ぼくが、本を読んだり、煙草を嗜んだり、服に関心を持っているのは、やっぱりどこかでシティボーイに憧れているからだろう。
けれど、ぼくは今、山ボーイになりたい。
言葉を捨てたわけではない。シティボーイへの憧れが身体から消え去ったわけではない。
けれど、ぼくは今、身体に関心がある。
歩くことに至上の喜びを感じる。
頭の中で動くことから、身体全体を動かすことに。
モノやコトの消費者から、ぼく自身の消費者になりたい。
それがいつか、言葉やシティボーイとつながりを持てばいい。いや、持たなくてもいい。そういう期待はシティボーイの哲学にきっと反するから。
いつか、この土地に、山ボーイが集まる喫茶店「ひらつか庵」を創りたい。そこには言葉を持つ人も、シティボーイもやってくる。平和な世界。
そのはじまりとして、ぼくが山ボーイになる。
このノートは、そのようにして始まる。
つづく。
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