高い山の裾野は広い。
「高い山の裾野は広い」
数年前、浪人生として通っていた予備校の先生の言葉である。
今となっては、各授業で教わった内容はほとんど、というか、全て忘れてしまった。忘れてしまったというか、血肉化されたというべきか。各教科の知識は、大学受験を終えた段階でその役目を終えたのだろう。
けれども、冒頭の言葉のように、受験という枠にとどまらない言葉、どこかゴツゴツした違和感を感じる言葉。そういう言葉は大学に進学した後、徐々に存在感を増していくのであった。
「高い山の裾野は広い」
この言葉に、浪人以後の人生の要所で支えられてきたように思う。
専門の授業ではなく、単位にならないが関心のある他学科の授業に潜ったり。
ファッションについて考えたくて、「ここのがっこう」に通ってみたり。
理系の大学から、文系の大学院に進んだこともあった。
もっと早く、高校生の時に、浪人の時に、こちらの専攻に移ることができなかっただろうか。周りの人々は、既に自身の専門を深めているのに、ぼくはまだ揺らぎ続けている、と悩むことを多々あった。けれど、「高い山の裾野は広い」と唱えると、不思議と肩肘張った不安が和らいでいく。その時々の選択・経験があって、今こうして関心を持つことができたのだと、人生を点ではなく、線で考えることができるようになった。
遅くとも、つまずいても、ずっと遠回りしても、きっと今高い山の裾野を登っているのだと。そして、その裾野の機微の一つひとつを丁寧に受け止めること。そんなことを教えられている心地がした。
今日もまた、悩みながら、進退を繰り返しながら、日々を過ごしている。高い山と裾野のあいだを、日々悩みながら、揺らいでいる。
つづく。
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