
吃音だと言っちゃおうか、隠し通そうか
会社で働き始めてからいつも考えてた。
どっちが私は幸せなんだろうって。
だけど決まって毎回答えは出ない。
「吃音であることを言ってしまった方が楽なのか」
「吃音であることを言わないで隠しておいた方が安泰なのか」
決められないのは、どっちの道に進んでも、
良い所と悪い所があるから。
その根底にあるのはいつも恐怖。
言った後の、レッテルを貼られる恐怖。
言わなくても、バレないように生きなきゃいけない恐怖。
考えるのがめんどくさいから、
自分でしっくりくる答えが欲しかった。
ずっと。
どちらかを選んで苦しんだ時、責めるのは、
「”言う”という選択をした自分自身」、
もしくは、
「”言わない”という選択をした自分自身」だから、
自分以外に責任を擦り付けられる、
判断基準のようなものが欲しいのかもとも思う。
いつも私は、
助けてほしいと泣き叫ぶ未熟者のようで、
責任逃れに必死な厄介者なんだ。
吃音者として認識されるのか、
”普通の子”として認識されるのか、
言った方が良いのか、言わない方が良いのか問題。
私にとっては重要な分かれ道。
でも最近、この悩みの形がちょっと変わってきている。
きっと吃音を、
少しずつ受け入れ始める事ができているからだと思う。
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「もう言っちゃおうか」VS「なんとか隠し通そうか」
表現に困って「VS」なんてつけたけれど、
私の頭の中では、この2つは敵対関係にあるわけではない。
だけど社会に出て、
自分の事をちゃんと知っておいてもらいたいと思う人が増える度、
学生の時より強く、
相反する2つの思いが、より交錯する機会が増えた。
選択して進んだ先で感じる
リスクと安心を天秤にかけて、、
「こっちだ!」「いや、こっちの方がいいって!」
ってな感じで、いつまでも勝負のつかない綱引きに必死になっている。
言った方の世界が必ずしも、自分が想像していた世界ではないことは、
今までの経験から痛いほど分かっているから、
「言う」という選択は簡単にはできなくなっている。
それでもなお、「言わない」という選択をしてその道を歩く私が、
今いる道を立ち止まって、後ろを振り返って考えてしまうのは、
きっとこのまま進むのが不本意で、
「言う」という道に希望を失っていないからだとも思う。
そして多分、その希望というのは、
自分を受け入れてくれて、ありのまま安心していられる場所、
なんだと思う。
自分のコアな部分を差し出す代わりに、
今いるこの場所は、私にとって安心できる場所かどうか、
受け入れてくれる場所なのかの答えがほしい、
そんな感覚なのかもしれない。
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会社だけじゃなくて交友関係でも、
関係が深くなって、もっと近い存在になりたいと思うようになると、
吃音を隠して関わっている自分も、一緒にいる時間ももどかしくなった。
自分のもっと根本部分を相手に打ち明けて、親しくなりたい。
心と心で会話したいという気持ちからかもしれない。
自分で言うのも変だけど、性格なのかなんなのか、
安心できる人の範囲が極端に狭い。
だから友達も全然できない。
そんな自分でも心を開けた大切な人たちに、隠し事をしているのが
嫌だった。
自分を占める大きな隠し事をしているのが窮屈だった。
言い換えすれば吃音だとバレなくても、関りが増えていく中で、なんかどこかおかしいと思うところは関係が長くなれば必ず相手にわかる。
仲良くしてくれる私の目の前の人には、それが吃音だと分かっていてほしい。隠してばかりの中身のない私でいる限り、ありのままの相手と話ができないように感じるから。
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小さい頃から、人と違う部分に苦しんできた私にとって、
大人になった今も、いつだって無意識に執着している”普通”という見えない概念。
だけどそれ以上に、私は嘘をついていないありのままの自分でいたいという、自由さの方がいつだって強かったんだと気付いた。
そして同時に、私はいつだって、
相手の反応によって、自分の行動の正しさを決定づけていたことに気づいた。
・受け入れて「もらえたら」、言ってよかった。
・受け入れて「もらえなかったら」、言わなきゃよかった。
↑これは多分、私の中にある相当根深い他人軸だと思う。
(よく耳にする自己肯定感とか他人軸とか本当に厄介、、ㇵァ)
この他人軸の根本は、そもそも、自分が自分を受け入れてあげられていないから。だから外で、私をそのまま受け入れてくれる人がいても、私が欲しかった言葉をもらっても、その場は安心できても、家に帰って一人になるといつも不安だった。
また辛い出来事があると、あのとき感じた安心感はすぐに形ないものとなった。
ありのままでいたいという強い思いとは裏腹に、
ありのままの私の中にある吃音を「恥」だと思っていたし、
そんなありのままの自分に「自信」のかけらもなかった。
だからどんなことを言われても、受け止めてもらえても、
いつもありのままの自分をさらけ出すことが怖かったし、惨めだった。
「あぁ、結局私は一人なんだ。誰も分かってくれない。この苦しみは一人で抱えて生きていくしかないんだと」
思ってた。
そりゃそうだよね。
一番自分と近くにいて、思考も行動の判断も最終的に下す自分自身が、根底で自分を「だめだ」と思っていれば、安心感なんていつもぐらぐらにきまってる。
何回も、この思考を繰り返すうちに、結局、自分を認めてあげて、楽に生きる為には私が心から大丈夫って思ってあげるしかないんだって、心の底から腹落ちして、吃音ばかりに執着することに諦めがついた。
どんなに嫌だと思っても、吃音は私から離れることはないし、きっともう私も吃音から離れられないんだと思う。
吃音というものを恨んだところで、そこから生まれるのは、自分を傷つける気持ちなんだって、大きな虚無感と同時に、ゼロになった。
なんでみんなと同じになることにそんなに必死になっているの?
自分を責めて何になるの?
って何かの問題が一瞬で解けた、そんな感覚だった。
もう変わることのないものを責めてきた自分が可哀そうで。
もう吃音に抗うのはやめよう。
そう考えられるようになると、
もう自分が自分の事を認められているから、
嫌な事を言われても、変な目で見られても、
「自分を責める」というより、今の時点で、「私が見てる世界」と「あの人の見ている世界が違う」それだけだし、これが私だから、しょうがない。
吃音で言えない場面があっても、「言えなかったな、あー」ってそれだけ。
吃音でどうしても居づらい場所があるなら、それは吃音のせいなんじゃなくて、自分に合わないだけ。だから逃げちゃって全然良い。
君は何も悪くないよ。
ありのままの自分でいていいんだから、
というかいないと結局辛くなるんだから、
ありのままの自分でいて幸せな場所を見つけることに、
今まで自分で自分を傷つけて学んだ分、
今度は力を注いてあげよう。
吃音だと言った方が「良いか」、
言わない方が「良いか」、
という他人軸じゃなくて、
言い「たいか」、
言い「たくないか」、
という自分軸で考えられているように思う。
「吃音」というものが外的に私に付属しているという感覚ではなくて、
「吃音」はもう自分の中に溶け合っている一部であると、大切な自分を構成する要素と受け入れられた。
どっちにしろ今まで私は、
吃音症が中心の物語を生きていて、どっちの道に進んだら、自分を受け入れてくれるだろうかと、自分ではない誰かの思考の中での人生を、誰かのための感情の渦の中で生きていて、
自分の物語を生きることができていなかったんだと思う。
「言わない」という選択をしても、
この場所では、この人には、「言わない」と選択した、”私”だし、
「言う」という選択をしても、
この場所では、この人には、「言おう」と選択した、”私”だ。
吃音症の私も、普通の私も今はどこにもいない。
自分を構成する要素を伝えたい相手だと自分が思うかどうか。
だから正解は自分の心の声だと思う。
吃音をある意味、いつも腫物のように扱って、
一番気にしていたのは私だったのかもしれない。
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ただでさえ、ありのままの自分を認めて、自分の物語を生きていくのは、すごく難しい時代だなと思う。特に過去に何か言われたり、違いをすごく感じてきた人は。
それなのに、悩んでいる人には「自己肯定感」が必要だと世間は焦らせてくる。それが無理だから悩んでいるんじゃないかと私はいつも、またそこで悩むのだけれど。
それに、一回「吃音の物語」の世界に迷い込むと、自分がそこに迷い込んでいることさえ分からないし、吃音で失敗した経験がいつか、自分はダメという問題に移行し、自分の良い所なんて簡単に飲み込まれて何の価値もなくなる。この物語から抜け出すのは至難の業だと思う。
吃音で悩むすべての人の傍に、生きづらさを抱える全ての人の傍に、
「吃音の物語」「苦しみの物語」を抜け出して、
「自分自身の物語」の存在に気づく過程に寄り添ってくれる、話を聞いてくれる人が必要だよなと、最近とても考える。
自分の事を誰かに話すのが苦手な私は、誰かに話す代わりに、こうやって頭の中を文字にすることで、自分自身と対話で来ているように思う。
苦しんでいる人の役に立ちたい、
という小さな願望が渦巻いている部屋から、おやすみなさい。☽
月がきれいだよ。あったかくしてね。
ちな