見出し画像

生まれて初めての海外 1981年

大学を4月に卒業して、その年の10月にはイラン-イラク戦争のど真ん中、 キルクークと言う場所で、イラクノースガスプロジェクトと言う工事で、
イラクに滞在していました。 

場所はここ。

地図

当時は、戦争中と言うこともあり、
家族に出張先で死んでも会社を訴えませんと言う誓約書を書いて、
唯一と言っていい戦争特約付きの住友生命の海外保険に加入し、
イラクへ行きました。 
特約保険料だけで、年間3万円だったと記憶しています。

画像2

パスポートのビザがこれです。 

なかなか見ることが無いビザですね。 

現場は、砂漠の真ん中にサイトがあり、工事現場があります。 
簡単に言うと、フェンスで囲まれた冷房付きの簡易宿舎に閉じ込められ、
食事もサイトの食堂でとるという、まるで強制収容所での生活です。 
お風呂だけは日本人向けの大浴場があり、非常に良かったです。 
フィリピン人のワーカーのサイトにはシャワーしかありませんでした。 

朝起きると、食堂で朝食、バスで工事現場に移動して、朝礼。 
昼にはまたバスで、サイトに戻り食堂で昼食。 
午後は炎天下の砂漠で仕事。 

日本人は馬鹿なので、炎天下で頑張りすぎて、鼻血を吹いて倒れます。 

ワーカーはその辺は慣れたもので、倒れない程度の仕事しかしません。 

何度も倒れる日本人を見て、
お昼にクーラーの聞いた食堂に行くのが危ないと気が付き、
クルデ族のワーカーにお金を渡して、ワーカーと一緒に昼食をとり、
配管の陰で昼休みをとる方法に変えて、
何とか乾季の気温50度をしのぎました。 

フィリピン人が闇の酒場を見つけてきて、
一緒に飲みに行ったりもしました。 

画像3
画像4
画像5

珍しい闇酒場での写真です。 

イラクはディナールと言うお金の単位で、このようなお札でした。 

画像6

カメラの持ち込みが非常に厳しく、
現場用のカメラで撮った写真しかないため、写真は少ないです。 

工事も一段落ついて、日本に戻りましたが、
成田の税関でパスポートを見せたら、
税関職員に「外貨獲得ご苦労様です。」と敬礼をされました。 

当時は変動相場制になったばかりの頃で、US1$220円だったと思います。 

その後、爆弾テロ華やかなスリランカや、タイ、中国、香港など
東南アジアを中心に仕事をしていました。  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?