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カフカは桑の葉を思う①
僕の数奇な運命を、どうか知って欲しい。心に留めておいて欲しい。神の悪戯か、悪魔の所業か。今となっては何も分からない。知る術もない。でも僕はこうやってただ運命に翻弄されたまま消えて無くなることだけは嫌だ。嫌なんだ。もしこれを見つけることができたのなら、どうか僕の家族に、僕の大切な人たちに伝えて欲しい。僕は最後まで運命に抗い、生を全うしたと。それだけ、そう伝えて欲しい。
その日の朝、僕は嫌な予感に胸騒ぎがして目が覚めた。
視界がおかしい。おぼろげに明るいことしか分からない。目をこすろうとしても、身体の感触がいつもと違う。手足の感覚が失われていて、満足に動けそうにもない。それでいて身体は何かしら柔らかく、クネクネと容易に曲がった。何が起こったのか、何も理解できなかった。しばらくしても状況が呑み込めなかった。夢なのか。最初はそう考えてもみた。でも皮膚に触れる感触はぼんやりとはしていても、これが現実世界のものだと僕に伝えた。
それに、時々意識が遠くなる。ぼんやりとした意識が霞み出すと、何だか体中が熱くなるように思えた。目覚めるとひどく空腹で、気づくと僕の口の中はいっぱいに抹茶のような味が満ちていた。そんな感覚が一日中続くのだ。顎のあたりが始終動いている感覚がある。ぼんやりした明るさと闇が交互にやってきて、外界は昼と夜を繰り返しているようだ。理解のできない時間の流れを何度か繰り返すと、僕はまた意識が遠のいた。この意味不明な世界が無限に繰り返されるような気がして、僕は正気を保つ勇気すら失くしてしまいそうだ…
いつの間にか、辺りは明るかった。僕はようやく意識が戻ったようだ。視界の悪さと体の不自由さは相変わらずだが、心なしか大きくなったような気がする。布団や床の感触が以前よりしっかりと感じられるようになっている。僕はもう夢とは言えないこの状況を受け入れた。受け入れた上で、この世界を何とか理解しようと努力することにした。
肌の感覚を済ませてみた。転がることはできるようだ。布団の端らしき柔らかさと、その横の冷たい硬さがここが床だと教えてくれた。やはり僕はいつもの自分の部屋にいるようだ。布団の端からゴロリと転がってみたが大体3回転くらいで反対側にたどり着いた。つまりボクのサイズは円柱形で直径20cm程度だ。縦側はクネクネと動いてしまうので正確ではないが、どうやら100cmよりもやや小さい、80~90㎝くらいだと推定された。丸い棒状でクネクネ動く生き物。これじゃまるで芋虫じゃないか。そう思った僕ははっとなった。
お蚕さま。僕は巨大なカイコの幼虫なんじゃ?
僕の住んでる地域はかつては養蚕業が盛んだった土地だ。僕が小さかった頃、近くに住んでいたお婆ちゃんが良くお蚕様といってカイコのことを話してくれた。若いころは養蚕業の女工さんをしていたらしく、年をとってからも自宅で細々とカイコを飼っていた。
そのせいか、この辺りには野生化した桑の木がたくさんあった。桑の葉は栄養価も高く、抹茶のような味がして意外とおいしい。健康にも良いとされて、僕の家でもヨモギのように様々に形を変えて食材として利用されてきた。ここ数日も乾燥させてお茶にするとかで、居間に大量の葉っぱが並べられていたが、でも客人が来るからと慌てて僕の部屋に運び込まれたのだ。
僕の顎が動いていたのは、この葉っぱを食んでいたのだ。きっと僕は桑の葉を喜んで食っている。味は薄いが、若い抹茶のような青臭くて仄かに甘い香りがボクを夢中にさせているんだ。僕の仮説はカイコの生態と照らし合わせると、大体合っているようだ。何故いま僕がカイコなんだ?根本的な疑問は解決しないが、これで少なくとも現状の世界は理解できそうだった。
まるでカフカ*の世界じゃないか。僕はひとり嘆くように、そうつぶやこうとした。声にはならなかった。
作者注:カフカはチェコ生まれの作家で作品に【変身】がある。実存主義の中の不条理文学として知られる。冒頭の一文、「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見した。」が有名。
↓参考資料です。