大人になってからうんこを漏らすと脳が覚醒するという話を聞いて、うんこを漏らしたくなったけど(2/2)
※前回の記事
今回は「なぜいまだに私はうんこを漏らせずにいるのか?」をなるべく短めに書いて終わらせたいけど長くなりそう。
1. その後
前回の冒頭で登場したカラオケ屋の店長とはその後、再びうんこ漏らしのスピリチュアルな話をすることはなかった。なにしろ脳の覚醒によって触れられる"世界"がどんな姿かたち色合いをしているか、なんて事はそもそもが言説不可能であって。それをわかるには自分がうんこを漏らして覚醒を体験するほかないのだ。仏教と同じである。
時は経って、いつしか店長は転職し、カラオケ屋も閉店し、時は正確なスピードで移り変わっていった。横綱日馬富士が暴行問題で引退。日大アメフト部選手の危険タックル。としまえん閉園。東京五輪延期。なんとかウィルスという剣呑なものが猖獗を極める。で、現在。春の気配がすこしずつ町中に漂い始めたこの頃、私はまだうんこを漏らせないでいる。
なぜ私はうんこを漏らせないでいるのか。これには拠所ない事情、問題があってそれはずばり作為性の完全排除が難しすぎる問題である。
作為とはつまり「覚醒して世界に触れたい」という目的をもち、その手段としてわざとうんこを漏らすことであるが、なぜ作為性の保持がいけないのかというのにはふたつの理由に分けられる。
①不法行為とそれに伴う悔恨意識(地獄行き)
②メカニズム上、わざとうんこを漏らしても覚醒できないから
ひとつずつ説明する。
2. 作為性の排除
まずひとつ目に①不法行為とそれに伴う悔恨意識について。考えてみれば当たり前の話なのだが、「覚醒したぁいの~」とか言ってわざと公衆の面前でブボブボとうんこを漏らすなんてどう考えてもダメで、清々しいくらいに犯罪だ。
このとおり故意にうんこを漏らすのは犯罪行為である。犯罪行為と知りながら、それでも利己心に流されて実行するというのはとても罪深きことで、仮に法規上の罰則を受けずに済んだとしても、心に取り返しのつかない罪業を背負うはめになってしまう。悪いことをしたんだから死後の地獄行きは免れないだろう。
私は人として一段上に成長したいから覚醒を望むのであって、そのせいで犯罪者に落ちぶれて挙句死後には地獄行きを覚悟しなければならないなんて、そんなのは嫌だ。本末が転倒するし、やはり悪いことと知りながらうんこは漏らせない。
で次に②メカニズム上、わざとうんこを漏らしても覚醒できないから。ということであるが、これはちょっとややこしい。私も気づくのに時間がかかった。結論から言うと「故意に脱糞したのであればそれはもはや"うんこコントロール"のいち形態でしかなく、宇宙属性を獲得できないから」である。
前回説明した覚醒のメカニズムを復習するが、"うんこしたらあかん場所でうんこしたらあかん"という戒律は人間が社会内存在であることの根幹を担保する基礎の部分である。そしてその最重要ミームが破壊/破戒されることによって当事の人間は枷がはずれ、共同幻想を失った脳は高速回転すると同時に禁断の宇宙属性を手に入れる。つまり"世界"が顕現する。
しかし目的のための脱糞の場合とはそれすなわち打算的な逸脱、計画的な知的活動であって、いち形態としてのうんこコントロールの成功体験でしかない。だから社会性を失うことがなく、脳も現状に対処するための高速処理を行わない。その結果、宇宙属性の獲得は失敗に終わる。
もし私がこの妙理に気づかぬまま行動していたらと思うと…ぞっとする。意気揚々と人前(晴れた日のエキスポシティとか)で意図的にうんこをぶりぶり漏らして人様に大変不快な思いをさせたのち「いや~んニヤニヤ笑いながら覚醒がどうのこうの言って脱糞してる気色の悪い男がいます!」と有閑マダムに通報される、汚臭を撒き散らしながら自分は「あれぇ!?覚醒できないよぉなんでぇ」と絶望しつつ衆人環視のなか手錠をはめられ逮捕される、そして文字通りのクソ人間に成り果てる、とかになっていただろう。
①と②をまとめると、法規的にも道徳的にも、そしてなにより覚醒を成功させるためにも作為性を(少なくとも意識の上では)徹底排除しなければならない。企みではだめなのだ。
3. 純粋過失
作為性をはらまないうんこ漏らし="純粋な過失による脱糞"なんて果たして可能なのか、というと現状それは果たして不可能であった。申し訳ない。
だってそうだろう。純粋な過失による脱糞とは"うんこが漏れそうになった時に、絶対に漏らしたくない、と思い、考え付くあらゆる策を講じて、それでもどうすることもできずに全て失敗に終わり、結果残念ながら、漏らしたくないうんこを漏らしてしまった"ということで、そんなものはいわゆる不運のアクシデントである。
だから私は普段どおりの生活を営むしかない。起床すれば顔を洗い歯を磨き、労働で日銭を稼ぎ飯を食い、開いた時間に読書や、あるいは街の方へに行って遊んで帰って寝る、また日が昇れば起床する、部屋を掃除して晴れた日には洗濯物を干し、散歩がてら本屋に行って、帰り道に見た夕景を胸に、夜は中華屋の店員の頭をハリセンで叩きのめして帰宅して寝て、また次の一日を生活する。
いったいいつうんこを漏らすなどというゴミみたいな失敗ができる(してしまう)のだろうか。そもそも大人になってから今までその失敗(純粋な過失による脱糞)をしていないから成功(覚醒)を経験できず、こんなに長々うんこうんこと悩み考えているのだ。
なにも企まず、普段どおりに生活しなければならない。しかし今までどおり普通に生きていればうんこを漏らす機会など到底訪れない。だって今までもなかったんだから。
これが私がまだうんこをもらせずにいる理由である。二回の記事にわたり(わたしからすると数年間)覚醒のためのうんこ漏らしについて考え記述してきたが、結論は普段どおりに生きるしかない、というあっけないものだった。
覚醒はできそうにない。
4. さいごに
メカニズム上、作為的なうんこ漏らしでは覚醒できないということに気づく前は、最悪警察の厄介になってでもうんこ漏らしたろうかな?とか2秒くらい考えたこともあった。もう日々の暮らしの中で覚醒することについてしか考えることができなくなってしまい、目をギラギラさせながらエキスポシティに向かったこともあった。
その向かう途中の電車の中で私はハッと気がついたのだ。脳天に青白く光る雷が直撃したかのような衝撃が走った、わけではないがハッとした。
法規範・社会規範により禁ぜられたことを無視して、覚醒したいという自分の欲得のままに行動するなんて、まさにあのカラオケ屋に来ていた大学生たちとなんら変わらんではないか!
覚醒を望む私はいつの間にか道徳観と倫理観が徹底的に欠如してしまい、目指すべきニルヴァーナ的なもの(=覚醒)を追い求め、それ以外のことや周囲の人の迷惑を省みずにいたのだ。
このときの自覚がきっかけとなり、私は覚醒メカニズム上の問題にも気付くことができた。ぎりぎりセーフ。
ところで面白いのは、この"作為性があってはダメ"という妙理は今回書いたうんこ漏らしに限らず、さまざまな物事にあてはまることだ。
欲得づくで事を企んだ人間が、成功者(企てのなかった人)の表面上の行動を真似しても、結局同じような結果は得られず失敗する、というのは日本昔話なんかでもあるから、けっこう大事なことなんじゃないのかね。
これで終わりです。今回はあんまりおもしろおかしく書けた部分が少ないなぁと消化不良の感もありありではあるけれども、まぁええやろ、という気持ちでいきたい。
5. 書き終えて
今日はかなりええ天気で、外出したいのを我慢してこの記事を書いていた。昨日のうちに書いておかなかった自分を呪いながらひとりパソコンに向かい、うんこについて考えているなんとも面妖な昼。
窓を開けていると時おりやわらかい低速風が入ってきて、部屋の中をぐるりと一周しながら何も言わずとけて消えゆくのが気持ちいい。そのあとの部屋には低速風が運んできた春の予感が残っていて、それだけで充分なんだけど、春の予感以外のものも混じっているように思える。でもそれが何なのかはよくわからない。そのわからないものが部屋中に満ちてくると、なんだか自分も風景も凪いで、時間の感覚が曖昧になった分、かわりに空間だけが現れるような気がした。
いずれにせよ春の間近なるを知り、今年は花の雲でも見に行けたら良いけれど、なんて浮ついた心持ちになる。
それから、まぁ別に覚醒なんてせんでもええかぁ、と季節のはじまりに触れて思った私は、軽い足取りで便所に向かった。
おわり
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