日本の「出迎え三歩、見送り七歩」とマラウイの「添い歩き50m」
日本の田舎の「お茶」と「見送り」
家から車で1時間ほどの田舎に、1人暮らしている遠い親戚のおばあさんがいる。母の通院に付き添った帰り道、届け物のため寄ることになった。
夕方5時過ぎ。少し遅くなってしまったから、届け物をしたらすぐおいとますることにしていた。途中見かけた稲刈り前の田んぼは黄金色に輝き、雨上がりの夕焼け空が色に深みを加えていた。
玄関先で「ごめんください」と声をかけると、奥から親戚のおばあさんが少しびっくりした様子で顔を出した。
「上がってお茶していきなよ」
事前連絡なしの訪問にも関わらず、温かい出迎えの言葉。
そのお誘いをかわして届け物を渡し、あいさつと一通りの近況報告を終え、「それじゃあ」と辞去しようとすると、「お茶していきなよ」と再度のお誘い。
断る、引きとめ、断る、引きとめ・・・を何度も繰り返しながら、近くに停めてあった車に向かって少しずつ歩みを進める。車までたどり着いてやっと「今日は時間も遅いし、また今度ゆっくり」ということで落ち着いた。
車の窓を開けて互いにお別れを告げ、車を発進させた。しばらく進み、曲がり道の手前でバックミラーを覗くと、おばあさんはまだ手を振り続けている。視界から外れるまで見送りは続いた。
懐かしい祖父母の見送り
こんな見送りの際には、昔、休みの日に自分の祖父母を訪ねた時のことを懐かしく思い出す。
家の前の道まで出て、必ず祖父母並んで見送ってくれた。すぐ先に交差点があり、車が赤信号で引っかかることもあった。そんな時も家には戻らず、道からこちらをずっと見ていた。青に変わり、直進した先の曲がり道で見えなくなるまで。
まだ子供だった自分は、親が運転する車の後部座席に乗っていた。こちらからも元気良く手を振り返して、最後まで祖父母の見送りを堪能した。
立ち話からのお茶
帰り道の車の中で、母が言った。
「車社会になって、家の前の立ち話が消えたね」
昔は、立ち話からそのまま「お茶していきなよ」が当たり前だったのだとか。
母の実家、私にとっての祖父母の家は、ローカル線の無人駅から数十メートルほどの駅前通りにあった。駅前通りと言っても、車がぎりぎりすれ違えるかどうかの道幅の路地である。車がまだまだ少なく、そのローカル線が移動手段の主流だった時代には、大勢の人の往来があったらしい。
曾祖母や祖母が庭先で作業しているところに、通りがけに知り合いが顔を出すと、家の前で立ち話が始まる。そのうちに「立ち話ではアレだから」となり「お茶していきなよ」となる。
当時の祖父母の家は、玄関先でお茶しやすいつくりになっていたらしい。家の奥にまで上がらずとも、ちょっとそこに腰を下ろして、近所の煎餅屋で買ってきた煎餅などつまんでもらいながらお茶するのが、ごく自然な光景だったという。
「カリブ!」はマラウイ流「お茶していきなよ」
マラウイには「カリブ」という言葉があり、日本の「お茶していきなよ」にかなり近い。マラウイでは屋外で家族や仲間と一緒に食事やティータイムをすることも珍しくない。たまたまそこに通りがかって目が合うと、必ずと言っていいほど「カリブ!」と声をかけられた。声のかけ方があまりにも自然で、何とも心地よい。
外国人だからということで、見知らぬ私にも声をかけてくれた、ということもあったのかもしれない。もちろん、知り合いのマラウイ人同士では当たり前の光景だ。
こんなふうにかつての日本でも、自然な「お茶していきなよ」があふれていたのではなかろうか。母の話と重ね合わせて、想像を膨らませた。
「カリブ」の内容は色々だ。一緒に主食のンシマをつついて食べる「食事」の時もあれば、焼き芋や落花生やパンなどを紅茶と楽しむ「お茶」の時もある。日本でも「お茶」ならあり得るが、すでに始まっている「食事」にいきなり合流させてもらうことは、なかなかないだろう。
作ってある料理の全体量は変わらないから、当然一人の取り分は減ってしまうが、誰もそれを気にしている様子はない。自然と始まり、仰々しいお礼の挨拶でしめくくられることもなく、自然と「カリブ」は終わる。
マラウイ流の見送り「添い歩き50m」
お見送りは日本のおもてなし文化の一つと言える。しかし、マラウイにも日本とは少し異なる形で見送り文化があった。
マラウイでの活動先の大学生たちと日本人の協力隊仲間とで、サッカーの交流試合を企画したことがあった。マラウイ各地に派遣されている協力隊仲間が10数人も集まってくれた。
試合が無事に終わり(日本人チームは見事に完敗した)、グラウンド脇の陣地で「解散」し、荷物を片付けて部屋に戻ろうとした時のこと。マラウイ人の学生に、「タナカ先生、なぜ友人たちを見送らないんですか?」と指摘された。
「いいんだよ、ここできちんとあいさつして解散にしたから大丈夫。荷物もたくさんあるし」用意していた陣地用のござや椅子などが抱えきれないほどあり、その片付けもあったから、というのが主な理由だ。
すると、そのもう一人のマラウイ人学生が、
「アッアー(=不満を表すマラウイ流の反応)!それはだめですよ。お見送りは最低でも正門のところまで一緒に歩いて行ってあげないと。マラウイ的にはここで解散はありえません。荷物は私たちが片付けておくので、お見送りしてください」
グラウンド脇の解散地点から正門までは50mほどの距離があった。両腕に大荷物を抱えて歩くのには、なかなか遠い。しかし、それよりも、遠路はるばる半日以上バスを乗り継ぎ、泊まりがけで来てくれた友人もいたことも考えれば、学生の指摘はもっともだ。確かに見送るべきだったと思い直し、急いで後ろから追いかけた。
街でも村でも添い歩き
マラウイの首都リロングウェ郊外の住宅街にある友人の家に行った時もそうだった。家の前でお別れではなく、帰路をしばらく一緒に添い歩いて見送ってくれた。それがやはり50mほどだった。もちろん、バスや自転車タクシーに乗る場所が手前にあればそこまでだったが。
村を訪問した際には、村と村の境界らしきところまで、村人たちが見送ってくれた。客人の荷物を持ってしばらく添い歩くのが見送りの流儀なのだ。ちなみに村の境界といっても、何か標識などがあるわけでないのだが。きっと50mを大きく越える「添い歩き」もあるのだろう。
マラウイ人には、このような「添い歩き」が習慣として染みついている。
「出迎え三歩、見送り七歩」に通ずる「独座観念」
私が知っている日本の見送りは「家の前の道まで出て、相手の姿(車)が見えなくなるまで」だけれど、車社会になる前は、マラウイみたいに約50m添い歩くスタイルで見送っていた人もいた可能性は否定できない。
そんなことを考えていたら、おもてなしの心得で「出迎え三歩、見送り七歩」という言葉があることを知った。ちなみにこの言葉は、中学校3年生の道徳教科書『中学道徳 あすを生きる3』(日本文教出版、令和3年度版)にも教材として取り上げられている。
客を迎えるときは三歩歩み寄ってお迎えし、見送るときは七歩先まで歩み出て、ご挨拶をするという接客の心構えだという。決して、物理的な三歩と七歩ではなく、あくまで心の持ちようだ。
江戸時代の大老、井伊直弼は著作『茶湯一会集』の中で「一期一会」「独座観念」を紹介しているが、その作法は「出迎え三歩、見送り七歩」に通ずるものがある。それよりもさらに進んで、見送った後、一人になってから余韻を感じる作法までをも述べているのが、いかにも日本らしい。
時代とともに薄れゆく「見送り」文化
コロナ禍の長期休み。里帰りがなかなかできずに、オンラインで孫と会う祖父母の様子が、度々テレビやインターネットのニュースで取りあげられていた。遠く離れて暮らす祖父母と孫が、日本にはたくさんいるのだろう。
つながった喜びとは裏腹に、終了ボタンをぽちっとしたら、余韻もなく途切れてしまうオンラインを、あの祖父母たちはどう感じていたのだろう。
オンライン里帰りでは、「出迎え三歩、見送り七歩」は物理的にあり得ない。しかし、消えたパソコンの画面を前に、ほんの少しの間「独座観念」ならできなくもない。そこに本来あるはずの情緒を感じるかどうかは別にして。
50mという長めの道のりを添い歩くマラウイと、七歩にとどめて「独座観念」する日本。
マラウイがいつの日か車社会になっても、日本にオンラインが今以上に定着しても、これらは形を変えて受け継がれていくのだろうか。