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[本]「思いを伝えるということ」を読んで

こんばんは。
今回は大宮エリーさんの、「思いを伝えるということ」という本を読んで考えたこと。

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最初に思ったのは、春のチューリップみたいな本だ、ということ。

ぶわぁっと大きくその花びらを広げて咲くのとは少し違って、すぼめるようにして咲くチューリップみたいな、どこか控えめで、でもまるで何かを守っているみたいな強さを感じたりする、そんなイメージ。…私だけだろうか。

本の中にも書いてあったけど、思いを伝えることは「恐ろしい」。
この世界には、目に見えないものがある。
私たちの目には見えないけど、確かに「存在する」ものがある。

その最たるものが、気持ちや心、思いだったりするんだと思う。

自分の中に確かに存在するはずなんだけど、よくわからなくて、不確かで、あるのかどうかたまに分からなくなったりもして。

でも、だからこそ私たちは言葉を使って、「思いを伝える」ことをして、その気持ちを証明するのだ。あるのかどうかも分からない、不確かで脆弱なものを、言葉に乗せて相手に届けることで、初めて存在が証明される。

そしてそうやって、言葉にして相手に伝えようとするとき、私たちは本当に心から、自分の中にある思いに向き合うことができるんだと思う。

あらゆる思いは人の心の中で生まれるものだから、言葉として外に出さなければなかったことにもできる。だけど、

「確かに
伝わらなくてもその人
困らないかもしれない
でも
もし伝わったら
その人、喜ぶかもしれない
その人、嬉しいかもしれない
ちょっとその日が
動き出すかもしれない」(p.7)。

その人がいてくれたことによって生まれた思いを、その人に伝えないなんて、単純にもったいない。
喜ぶかも。嬉しいかも。その人のその日が動き出すかも。

「思いを伝える」ということの大切さを気づかせてもらえるような一冊だった。
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この本には短いいくつかの物語が書かれている。
そのどれもが、極めて抽象的な「人を思う」という事柄を、具体的な物語でもって抽象的に描いている、という感じ。具体的な物語でもって、私たち読者は抽象的な「人を思う」という事柄を抽象的にまた捉え直す、というイメージだろうか。

この文章が文章として成り立っているのか分からないけど、私が考えたのはまさにこの感じだった。

例えば最初の「心の箱」という物語では、「好き」という抽象的な気持ちを、「箱」と田中サンと静子の物語という具体的な形でもって、抽象的に描いていた。

難しい。なんて言ったらいいんだろう、この感じ。
まあ、ともかくそんな風に思った。すごく素敵だ。

もうひとつ。
「好き」とはなにか?をずっと考えている。
この感情が一体何なのか、私はずっと考えている。言語化したいけどずっとできない。そのうちいろんな要素が絡んできて、がんじがらめになって、いつのまにか、他のことにばかり引っ張られてしまって、本当に大事な、根幹にあるものを忘れていた。それに気づかされた。

「その人が健やかであることを
切実に願うということ
それが、誰かを思うということ」(p.164)

私は考えすぎていた。
相手が自分を好きかどうかとか、予定が合わないとか、価値観とか、人生観とか、なんとかかんとか。
本当に大切なのは、自分が相手に対してどう思うかということ。

最初はそこから出発していたはずだったのに、いつのまにかいろんな出来事があって、考えなきゃいけないことに追われて、がんじがらめにして、最初の一番大切なことを忘れていた。

…もちろん、付き合うとか、結婚するとか、そういうことって、ただ「好き」という感情だけでできるものではない。考えなくてはならないことは山ほどある。現実はそう単純ではない。

だけど、考えることに追われても、「好き」という思いを忘れてはいけない。なかったことにしていいわけじゃない。

思いがあるということ、伝えるということ。
あれこれと大切なことの根幹を考える、思い直させてくれるきっかけをくれた一冊だった。
いい時間を過ごせたように思う。

最近、本当に、伝えられるものは伝えようと思うことが何度もある。
きちんと相手に自分の気持ちを伝えるようになって、壁を自分で作らなくなって、いくつも得るものがあった。
そして思う。私は一体これまで、どれだけの「思い」をなかったことにしてきたのだろうか、と。

傷つくのが嫌だった。だから壁を作って逃げた。そうやって自分を守って生きてきた。
一人で行動して、気を遣わなくて楽だと感じて、いつしかひとりでいることが当たり前になっていた。

だけど、ひとりがいつしか孤独という化け物になっていて、自分を苦しめるようになっていた。

そしてひとしきり苦しんだ。どうして世界はこうなんだと、誰も救ってくれない、分かってくれない、と思ってこの世界からいなくなることを望んでいた。

だけどある時、気づいた。
今自分が孤独なのは、当然の帰結じゃないか、と。
自分で壁を作って、人が入ってくるのを拒んで、自分でひとりになってきたのに、自分で育てた孤独なのに、それで世界を恨んでどうするんだ、と。他ならぬ自分のせいなのに、それを世界のせいにしていなくなることを願うなんて、あまりに身勝手ではないか、と。

そう気づいて、そしてそのタイミングで、今では大切な友人になっている人たちに出会った。
その二人からたくさんのものをもらった。思いも、抱えきれないほど受け取っている。
そして私も、思いを伝えられるようになった。

今私はすごく楽しい。
本気で自分の死を願っていた1ヶ月前が今は遠く感じられている。
こんなにも簡単なことだったのかと、今は思える。今の自分は過去の自分が作るということを、身をもって感じている。

もちろん課題はある。全て解決したわけじゃない。でも、今の私は少なくとも、死を願っていない。前を向いているし、明日が楽しみだと思えている。

またすぐ次の日には死にたいと思ってるかもしれない。未来のことはわからない。また同じことを繰り返すのかもしれない。
でも確かなのは、今楽しいということ。
そして未来も楽しくありたいという願い。

自分の中にある紛れもないこの思いを、ちゃんと伝えられる人でありたい。なかったことにならないように。私が仮にいなくなったときでも、相手の中にあることで、その存在が証明され、この世界に残り続けるように。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

大屋千風





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