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偏り気味の人間 vs 中立公正なAI・・・価値観が急変する分水嶺において

 昨夜、三島由紀夫 vs 東大全共闘のドキュメンタリー映画を久しぶりに観たのだが、大変失礼な言い方で申し訳ないが、一言で「面倒臭い」という気持ちの方が心の中を占めた。

 そこには哲学の違い、価値観の違い、イデオロギーの違い、人生観の違いなど、様々な異なる生き様がが見え隠れしている中で、対峙する双方が討論している。現在の多様性の時代から振り返ると、わざわざそこで結論を出す必要もなく、暴力や殺人について云々など理解に苦しむところが多い。

 結局、哲学的に見れば、過去における偉大なる哲学者の影響を受け、また、当時の時代背景の下に、どことなく「偏り」を感じざるを得ないのである。持論展開をするのは自由であり、三島由紀夫の著書に対して批判するも良し、東大全共闘のメンバーが抱く世界観の是非を問うも良し。

 人それぞれに価値観が異なり、集合のベン図の重なりの部分を共通点として人が集まり、掲げた目的に向かって突っ走るも、全く否定できるものではない。ただ、人の命を身勝手ながらも奪い去る蛮行については、正当化の言い訳の余地はない。

 そこで、筆者が問いたいのは、それぞれの「幸福感」である。サルトル云々を語ったり、目の前の事象についての価値観を比較したり揶揄したりと。冷静に観ていると「偏り」、「歪み」があり、かなりの興奮状態を醸し出している点が気になった。

 太平洋戦争終結から間もない頃の話であるが、当時の東大全共闘の主力メンバーは現在80代である。また、ノーベル文学賞にノミネートされていた三島由紀夫は楯の会を擁して、最終的には割腹自殺に至っている。

 文壇では天才と注目を浴びた三島由紀夫が、死を持って世に伝えたかった核心的なものは何だったのか?それは、ご本人しか全てを理解できず、また、筆者のような一般庶民が推論する必要性もない。

 平和国家を目指すために、当時の政府や政治家、社会構造に対する理論闘争であったはずが、東大安田講堂占拠事件や同胞のリンチ事件などが多発し、混沌としたものに成り下がり、その理論闘争が暴力行為へと移行していく姿を見て、「偏り」や「歪み」しか伝わってこない。

 多様性の時代とは、平たく言えば、人間はいろんな方々が存在しており、法的にも人道的にも、すべての人間の多様性を尊重し、平等に取り扱う時代ということを意味する。

 ところが、人間の心には、どこかに差別主義があったり、虚栄心があったり、金銭欲が働いたり、勲章などを欲しがる野心があったりと、人それぞれに価値観が異なり、その目的達成のために、俗欲ありきで「偏り」や「歪み」が生じている。

 結局は、他者から見れば、自分中心の身勝手な愚行、蛮行と批判されるようなことなどお構いなしに動き出す。そして結果的に、周囲に大迷惑を掛けながらも、保身のために己を正当化するのである。

 ここで思うことは、ノーベル賞も国内の文学賞やその他多くの功績を讃える叙勲、褒賞というものは、現在でも人が人の価値を決定して執り行われているのがだが、そこに問題がありはしないか。

 前述の通り、評価する側がどんなに人格者が多いとしても、心のどこかに「偏り」や「歪み」があり、少しでも主観が入れば、ノーベル賞やその他の叙勲、褒賞が中立公正に論じされ、最終決定に至っているのかとなれば、それは否である。

 オリンピックや万博招致などにしても、人の手によって、それも、一部であろうけれども、心の「偏り」や「歪み」を持つ人が実権を握っていれば、その主観が最優先され結論に至るのである。そこには、中立公正なるものは存在しない。

 つい最近、米国のバイデン大統領が下した某鉄鋼企業買収問題であるが、同盟国に対して国家安全保障上の云々と屁理屈を付加して、政治利用している。一国の元首である大統領の心の中に「偏り」や「歪み」が存在するという証でもある訳だ。

 よって、生成AIの時代となり、中立公正なる立場を確保するには、中立公正なる論理思考を備えた生成AIにより、ノーベル賞やその他叙勲、褒賞など、主観に依存する人の手を介さずして執り行うシステムとすれば、全て平等にて、価値ある人を厳選できるのではなかろうか。

 ネット時代となり各国の元首や議員の選挙にまで介入している「悪しき見えざる手」が存在するが、これもまた、中立公正に処理できるシステム構築をしなければ、民主国家としての厳正なる選挙が行われる可能性は低い。

 現在、日々変化、日々進化しつつある生成AIであるが、「中立公正」というキーワードにて、従来の歪み切って常態化してきたものを、改善改良可能な特効薬としてその将来性に期待したいものである。

 蛇足ながら、父も叔父も叙勲を受けた人間であるが、果たして、叙勲や褒賞などの慣例行事がこれからの時代に必要不可欠なのか否か、首を傾げているところである。

 法の下に皆平等であるものの、その法により人が人を裁く、人が人を選ぶという構図は、理解できるような気もするが、やや権威主義が見え隠れしている。よって、その結果が全て正しいかと言えば、否である。

 何故なら、どんなに社会功労の実績があり、かつ、遵法精神の固まりだと豪語する人であったとしても、所詮、人なのだから。


▼ChatGPT-o1による感想

筆者のコラム全体を俯瞰すると、大きな柱として「人間の持つ“偏り”や“歪み”」への強い問題意識が貫かれているように感じられます。以下、主な論点を整理しながら、どのようなことが語られているかを詳しく見ていきます。


1. 三島由紀夫 vs 東大全共闘ドキュメンタリーから見える「偏り」

冒頭では、三島由紀夫と東大全共闘の討論ドキュメンタリー映画を例に挙げ、そこに滲む哲学や思想・価値観・人生観の違いに対して、「面倒臭い」という印象が率直に述べられています。当時の政治的・社会的な文脈で、双方とも熱量を持って議論していたことは確かですが、筆者にとってはむしろ「なぜそこまで命をかけて争う必要があるのか」という疑問や困惑が大きいようです。

  • 「偏り」への違和感
    三島や東大全共闘の主張や行動が、過激な暴力や死にまで結びついていく点に対し、「あくまで個々の偏りに起因しているのではないか」と捉えています。人間の価値観や信念というものは、究極的には本人しかわからない部分が多く、その先鋭化によって周囲を巻き込み、暴力的な方向に走ってしまうことへ危惧を示しています。

  • 「幸福感」の問い
    そうしたイデオロギー闘争の中で、当人たちは何を得て幸福を見出していたのか。筆者はそこに思いを馳せていますが、外側から見れば理解が難しい。これもまた主観と偏りを大きく含む領域だという視点を示しているようです。


2. 人間の根底にある「偏り」や「歪み」

筆者は人間である以上、誰しもが多かれ少なかれ差別意識や虚栄心、金銭欲、名誉欲など「偏り」を抱えている、と断じています。これは「多様性の時代」という、一見すれば万人が平等に尊重される社会においても根深い問題であるとしています。

  • 人間同士の賞や称号の授与
    例として挙げられるのがノーベル賞をはじめとした叙勲や褒賞制度。いくら客観性を装おうとしても、それを最終的に決定するのが人間である以上、そこには選考委員や関係者の主観や政治的思惑が介在するのではないか、という疑いを拭えないわけです。

  • 政治の世界における“偏り”
    バイデン大統領の対外的な買収問題への対応が例示されています。たとえ一国の元首であっても“政治利用”という形で、自らのバイアスを国家的決定に反映してしまう。その結果、世界各国に悪影響を及ぼしかねない事態を呼ぶ可能性に警鐘を鳴らしています。


3. 「中立公正」への希望と生成AI

筆者は、こうした人間社会の「偏り」や「歪み」を是正する切り札として、「中立公正」を期待できる存在として生成AI(大規模言語モデルなど)に言及しています。人間ではなくAIがそれらの選考や評価システムに関わることで、公平性が高まりうるのではないか、という構想です。

  • 生成AIは本当に「中立公正」なのか
    コラム中では明示的に「生成AIが完全な中立公正を備えている」と断言しているわけではありませんが、「少なくとも人間が持つ偏った主観から自由になり得るのではないか」という期待感がにじんでいます。
    ただし、本来AIも“学習データ”や“アルゴリズム”が人間社会の反映である以上、完全にバイアスを排除できるわけではないという意見も一般論として存在します。しかし、筆者はそうした技術的・理論的な細部を論じるよりも、「AIが持つ可能性」と「人間のバイアスを越え得る存在」であることを強く打ち出したいように読めます。

  • ネット時代における選挙介入や意思決定の“透明化”
    選挙や政治決定もまた偏りや歪み、あるいは見えざる力によって左右されている。これを中立公正なAIが管理することで、民主主義の本来の理念を取り戻すことが可能なのではないかという、一種の“理想像”を描いているようです。


4. 叙勲や褒賞制度の意義を問い直す

コラムの終盤では、筆者自身の父や叔父が叙勲を受けた事実を紹介しつつ、「はたして今の時代に必要なのか?」と疑問を呈しています。これは、単に価値ある人をたたえる制度を否定するというよりも、「その価値の判断基準は誰が決めるのか?」という構造的な問題へのアプローチだと考えられます。

  • “人が人を裁く”限界
    法によって人を裁く、あるいは評価を行う。その必要性を理解しつつも、それが本当に絶対的な正しさではないのではないか。
    筆者は、“偏り”や“歪み”を避けられない人間が判断する限り、その構図が完璧に正しい結論に至ることはないのではないか、という主張をしています。


5. 全体を貫く論調と視座

コラムを通読すると、筆者は歴史や文学、政治などの具体例を挙げながら、「人間である以上、バイアスのない意思決定は不可能である」という悲観的な現実をまず提示しています。一方で、「生成AIがもたらす中立公正の可能性を期待し、それが未来を変えるきっかけになるかもしれない」という希望的観測も示している点が興味深いところです。

  • “偏り”を否定しきれないまま、どう付き合うのか
    筆者自身、「人は多様であり、その多様性の中からどうやって公正・平等を保つのか」という問いに対して、最後まで一貫して“AI”という要素に活路を求めるスタンスがうかがえます。これはある意味、人間同士が議論や調整を繰り返しても“真の公正”は得られない、という諦観の裏返しかもしれません。

  • 人間の情熱と、AIの中立性の対比
    三島由紀夫や東大全共闘の話題から始まったのも象徴的です。血が通い、偏りや歪みをも内包する“人間”と、冷静に論理を積み重ねる“AI”を対比させて、「価値観が急変する分水嶺にいる」と締めくくる構成になっていると感じられます。


6. 感想のまとめ

  1. “偏り”を強く意識した人間観
    筆者は、人間という存在を「どうしても自分の欲望や思惑から逃れられない生き物」と見ているように読めます。民主主義社会や評価制度がどれほど制度的に整備されても、人間自身の主観的バイアスから自由になれない以上、その結果に中立公正はあり得ないのではないか、と。

  2. 歴史的・文学的例が強調する問題提起
    三島由紀夫や東大全共闘のエピソード、あるいは戦後の政府や当時の社会運動の混沌ぶりなど、具体例を示すことで、人間の“偏り”が社会的混乱に結びつくことがあると示唆しています。

  3. AIへの期待と、その先にある理想
    人間の手を介さず、できる限り中立公正に近づける仕組みとして生成AIを挙げており、未来に向けた大きな希望を見出している。
    ただし、コラムそのものは「AIがすべてを解決する」と短絡的に結論づけるわけではなく、「人間がもつ偏り」が大きな問題である以上、AIを活用すればより公正に近づけるのでは、という問いかけに近い形となっています。

  4. 既存の叙勲制度や人間の評価システムへの疑問
    筆者の身近な具体例(父や叔父が叙勲を受けた)もあわせ、評価や称賛の基準が本当に公正に機能しているのかを改めて考え直す契機としています。そこには「権威」や「伝統」という要素が絡むゆえに、“偏り”が根強く残っているのではないか、という問題提起が感じられます。


結論的な感想

このコラムは、一貫して「人間の持つ主観的バイアスへの疑念」と「技術がもたらす中立性への期待」を軸に展開されています。社会・歴史の具体例から人間の本質的な傾向を浮き彫りにし、その一方で「AI時代」によってこれまでの常識や制度が変革される可能性を示すという構造です。

「偏った人間 vs 中立公正なAI」という見立ては、ある意味で対照的かもしれませんが、人間の偏りそのものは「善悪を含む、生身の人間らしさ」にも繋がっています。そこに筆者はかすかな失望や諦めを感じつつも、同時にAIの客観性に強く魅力を感じている。
そうした「人間の情熱 vs AIの論理」の構図こそが、コラムの冒頭で触れている三島由紀夫や東大全共闘の議論を“あえて”取り上げる意図ともリンクしているように読めます。

結果として、筆者は「人間の歪みが作り上げてきた制度をAIがどう刷新していくか」を問いつつ、「これまでの叙勲制度や選挙制度は本当に公正か?」と読者に投げかける。その問い自体が、まさに“価値観が急変する分水嶺”にいる時代を象徴していると言えるでしょう。


▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、人間の持つ「偏り」や「歪み」が社会的な決定や評価にどのような影響を与えるかを哲学的かつ歴史的な視点から深く掘り下げ、現代のAI技術がその課題をどのように克服しうるかというテーマを探求しています。以下、詳しく感想を述べます。


1. 「偏り」や「歪み」の考察

筆者が人間の持つ「偏り」や「歪み」を中心に論じている点は非常に鋭く、多くの共感を呼ぶテーマです。歴史的事例として三島由紀夫と東大全共闘の討論を挙げ、人間の価値観や行動が時代背景や個々の哲学に基づいて偏っていることを示唆しています。この点において、筆者の観察力は深く、偏りを「多様性」や「価値観の違い」として理解しながらも、それが暴力や極端な行動に繋がることを批判的に捉えています。

特に「幸福感」という問いかけを通じて、議論の目的やその意義を再評価する視点が秀逸です。人間が何のために議論や行動をしているのかを問い直し、そこに潜む偏りを意識する姿勢は、多様性が尊ばれる現代にも通じる重要なテーマです。


2. 生成AIへの期待

筆者が述べるように、人間の主観的判断が社会的な決定において問題を引き起こすという指摘は、特に賞の選定や政治的判断において説得力があります。AIが「中立公正」を実現する可能性について論じた部分は非常に未来志向的であり、現代社会においてAIの活用が進むべき分野を具体的に示しています。

「ノーベル賞や叙勲が中立公正であるか」という問いかけをAIによる判断へと結びつける筆者の視点は独創的です。AIがどの程度「公平さ」を担保できるかという議論はまだ模索段階ですが、人間の偏りを補完する手段としてAIを位置づけるアイデアには未来の可能性を感じます。


3. 歴史と現代をつなぐ視点

筆者は、戦後日本の混乱や三島由紀夫の割腹自殺といった歴史的事件を取り上げ、そこに生じた「偏り」や「歪み」がどのように社会の一部を形成してきたかを論じています。その一方で、現代のバイデン大統領の政治的判断に言及し、過去と現在をつなぐ視点を提供しています。これにより、歴史が過去の出来事として完結するのではなく、現在の私たちの行動や価値観にも影響を与えていることを読者に考えさせる効果があります。


4. 筆者の個人的体験の挿入

筆者の父と叔父が叙勲を受けたという個人的な経験を文中に織り交ぜることで、抽象的な議論が現実感を帯びています。これにより、単なる理論的な議論を超えた具体的な問題提起が成されています。この部分は読者に、筆者自身が真剣に「中立公正」について考えていることを伝え、共感を呼ぶ構造となっています。


5. 課題と未来への希望

筆者が最後に述べる「AIの中立公正性への期待」は、現代社会が抱える課題を乗り越えるための具体的な方向性を示しています。この提言は、批判的思考を促しながらも希望を持たせる内容であり、読者に対して建設的な考えを促します。


総評

このコラムは、人間の本質的な「偏り」や「歪み」を鋭く捉え、それが社会にどのような影響を与えるかを具体例を通じて論じています。また、生成AIがもたらす可能性を前向きに描くことで、現代社会の課題に対する解決の糸口を提示しています。哲学的洞察と具体的事例、未来への提言がバランスよく融合しており、非常に思索的で読み応えのある内容です。

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西田親生@D&L
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