映画「わたしは最悪。」感想
一言で、理想と現実の間で揺れながらも、自分に正直に人生を選択する女性の物語です。彼女の自由奔放な恋愛遍歴には驚くものの、30という年齢、女性としての選択に迷う主人公は今どきの女性だなと思いました。
評価「C」
※以降はネタバレを含みますので、未視聴の方は閲覧注意です。また、「刺激的な」内容を含むため、苦手な方はバックしてください。
本作は、「芸術の都」ノルウェーのオスロにて、現代を生きる主人公の女性ユリヤの20代後半から30代前半の日々の暮らしを描いた物語です。
理想と現実の間で揺れ、恋や仕事に悩み、30という年齢や、「女性」としての選択に迷いながらも、自分に正直に人生を選択する女性の姿を赤裸々に描いた内容が映画評論家を中心に高評価されました。
主演のレナーテ・レインスヴェが第74回カンヌ国際映画祭女優賞を受賞し、第94回アカデミー賞®でも脚本賞と国際長編映画賞にノミネートされました。
本作の監督は『母の残像』・『テルマ』・『リプライズ』・『オスロ、8月31日』のヨアキム・トリアー氏です。まず、本作は『リプライズ』と『オスロ、8月31日』から続くトリアー監督の「オスロ三部作」の第3作となっています。また、『母の残像』・『オスロ、8月31日』と共に、カンヌ国際映画祭コンペティション部門「とある視点部門」に正式出品されており、海外の映画祭にて高く評価されています。
・主なあらすじ
主人公ユリヤは、学生時代は成績優秀で、アート系の才能や文才もあるのに、「これしかない!」という決定的な道が見つからず、いまだ人生の脇役のような気分でいました。
そんな彼女にグラフィックノベル作家として成功した年上の恋人アクセルは、妻や母といったポジションをすすめてきます。
ある夜、招待されていないパーティに紛れ込んだユリヤは、若くて魅力的なアイヴィンに出会います。新たな恋の勢いに乗って、ユリヤは今度こそ自分の人生の主役の座をつかもうとしますが──。
(公式サイトより引用。)
本作は、各章に副題がついており、「全12章(+α)」で構成されています。そのため、ユリヤの「私小説」として見ることもできます。
尚、本作のレーティングは「R15+」です。ユリヤと恋人との「行為」のシーン、マジックマッシュルームによる幻覚のシーンなど、刺激の強いシーンが多く挿入されています。
・主な登場人物
・ユリヤ(演: レナーテ・レインスヴェ)
29歳の女性。(作中で30歳になります。)美人でエリート、彼氏持ちで所謂「非の打ち所がない」ように見えながらも、実は「ザ・器用貧乏」な女性です。
突然医学部を中退し、心理学を専攻するも、写真家を目指し、アクセルから文才を褒められたら執筆活動し、「アレじゃない、コレじゃない、自分はいつも『脇役』ばかりだ」と自分の人生の「軸」が定まらずにいました。加えて、アクセルから結婚や子供の話をされるも、「自信がない、向いていない」とはぐらかしていました。
そんなある日、パーティにてアイヴィンに出会い、「ワンナイト」のつもりが、すっかり虜になってしまいます。
アクセルとはすれ違いを感じていたユリヤは、今度こそ「人生の主役になりたい!」とアイヴィンに乗り換えますが…
・アクセル(演: アンデルシュ・ダニエルセン・リー)
45歳でグラフィックノベル作家の男性。ユリヤと交際しており、結婚を考えるほど愛していました。しかし、ユリヤの移り気に巻き込まれてしまい…
・アイヴィン(演: ヘルベルト・ノルドルム)
ユリヤがパーティーで出会った男性。アクセルより年下で、コーヒーショップで働いています。元々は妻帯者で、ユリヤとは「ワンナイト」のつもりでしたが、妻との「すれ違い」により、離婚してユリヤと交際します。
1. 本作は、フィーリング重視で生きる女性が「青い鳥」を探す物語である。
主人公ユリヤは、学校も仕事も恋人も、コロコロ変えてしまうほど移り気な女性です。最初は興味を持つものの、途中で現状に不満を抱き、それを壊してまた新しい物を探しにあっちへこっちへフラフラしています。
それに加えて、30という年齢からか結婚か子供についても悩み、どんどんと雪だるま式に自分が抱える問題を大きくしていってしまいます。
これは、正に「アイデンティティー・クライシス」であり、「青い鳥症候群」だと思います。
彼女は、現状が(傍から見れば)そこまで悪くないのに、「もっと良い人が…良い仕事が…」と、問題を外に求め、嫌になると自分から関係を壊してしまいます。一見すると、「上昇志向の強い」タイプ?と思いがちですが、実はそうではなく、自分の人生を「過大評価」してしまうタイプだと思います。加えて、色んな才能の片鱗を見せる「器用貧乏」な点も、それに拍車をかけています。
また、彼女の奔放な恋愛遍歴(所謂「恋愛体質」)からは、映画「トーベ」の主人公トーベ・ヤンソンを思い出しました。北欧の恋愛映画ってこういうの多いんですかね?所謂、「国民性」みたいなものでしょうか?※勿論、全ての人がそうという訳ではありません。
それにしても、知らない人のパーティーに勝手に入れるんですね。そちらにも驚きました!
2.主人公ユリヤを演じた女優が魅力的だった。
ユリヤを演じた女優レナーテ・レインスヴェは、本作が映画初主演とのことでしたが、とても魅力的で圧倒的な存在感がありました。
まず、彼女は大人と子供が混在しており、とても美人でセクシー、地頭も良く、自己実現や子供についても深く考えられる、大人な点がある一方で、好きになると一直線で本能的に行動し、周囲を振り回す点は子供でした。(実際の御顔立ちも、童顔とセクシーさが「共存」しているかのような不思議な印象を受けました。)
また、飲酒・喫煙シーンは、色っぽいです。特に、アイヴィンと邂逅して、煙草の煙をシェアするシーンはドキッとしました。※私は飲酒・喫煙はしませんが、何故か印象に残りました。
それにしても、ユリヤとアイヴィンがお互いの汗嗅ぐのと、放尿を見せ合うのは「何のプレイでどんなフェチだよ」とツッコミたくなりました。あれでも、まだあの2人にとっては「一線は越えてない」んですね。
このように、やってることはかなり「F」なんですが、何故か不思議とそこまで「下品」な感じはしなかったです。それは、ひとえに彼女の魅力かもしれません。それにしても、レナーテ・レインスヴェ、足長いですね~羨ましい!
ちなみに、パンフレットにはレナーテの写真が沢山あり、まるで写真集みたいでした。
3. ノルウェーのロケーションの美しさが光る作品である。
本作はノルウェーのロケーションの美しさが随所に挿入されており、作品の「空気感」がしっかりと伝わりました。
自然の音(鳥の声)、森の多い公園、電車の音、休暇で過ごしたログハウス(白夜なのか夕方でも明るい)、雪が舞う冬の街、夕日に照らされた街などの作中で見えた景色や音がとても良く、まるでそこに住む人々の息遣いまで聞こえてきそうでした。
4. タイトルの「わたし」って誰のこと?
本作のタイトルの「わたし」は、そのままの意味で取るなら、ユリヤのことだと思います。一方で、この主語はアクセルやアイヴィンにも掛かっているかもしれません。
アクセルは、グラフィックデザイナー作家として成功を収めながらも、未だふらついているユリヤに「妻や母になることが幸せ」だと説いてしまったせいで、彼女を窮屈にさせてしまいました。
アイヴィンは、元は妻帯者でしたが、妻の過剰な「自然派」への傾倒に辟易して、束の間の癒やしをユリヤに求めますが、いつの間にかズブズブになってしまいます。
これらを踏まえると、最初はユリヤが「最悪」だと見せかけて、実はこの二人にも「最悪」と感じさせる部分があるのかもしれません。
このように、本作が「三人の物語」と考えると、最初にユリヤ(とアクセル)の物語を始め、途中からアイヴィンの物語に進行が切り替わり、それらが交差して一点となる、そしてアクセルの物語が再始動してユリヤの物語に交わる、といった造りには納得しました。
ちなみに、予告編で流れた「止まった時の中をユリヤが走る」シーンですが、これはユリヤの本能的な恋心の比喩表現だと思います。「恋をすると時が止まる」なんて、まるで少女漫画ですね。しかし、その時止めをユリヤとアイヴィン以外が「認識できない」のは、お互いの「背徳感」故かもしれません。ここは、「ザ・ワールドかい!」(ジョジョネタ)と思わずツッコミを入れてしまいましたね(笑)。
5. ユリヤには共感し難いけれど、言うほど「最悪」でもない?
本作、恐らく男女で感想がまるっきり変わってしまうタイプの作品だと思います。特に、女性からは「共感」を得やすいのかな~と思いました。
私は女性ですが、正直な話、ユリヤには「共感はできなかった」ですね。人との出会いに感謝せず、これだけ自分勝手に振る舞って関係をリセットしていたら、「そりゃこうなるよね~」と思いました。実際、彼女に振り回されたアクセルは気の毒でしたし。まぁ、ユリヤの意見も「全くわからなくはない」けれど、「共感はし難い」感じでした。
一方で、タイトルで言われるほど、主人公はそこまで「最悪」だったかな?と引っかかる点もありました。まぁ、ユリヤ本人が自分のことを「根無し草」と言っていたし、そういう自覚があるだけまだ良いのかもしれませんが。
私は元々、恋愛映画は「苦手」ですが、本作については、そこまで主人公にイライラはしませんでした。まぁ、彼女は元々フィーリング重視の人なので、こうなるだろうな~と予想は出来ていたので。勿論、共感はし難いけど、「こういう人いるんだなぁ」と思いながら鑑賞していました。
6. 日本と比較すると、本作の人々はなんて「自由」なんだろう。
まず、本作はノルウェーが舞台ですが、登場人物達を見ていると、日本よりも遥かに「自由でノビノビ」している人達だなぁと思いました。
日本では、パートナーが嫌になっても、「体裁」や「子供」のために別れないカップルが多いと聞きますが、本作の登場人物からすれば、そういう考えは「窮屈で時間のムダ」なのかもしれません。実際、法律婚に拘らないカップルが多いのも、こういった国民性故かなと思いました。※勿論、宗教や法律など、複合的な要因はあります。
また、作中にてユリヤ・アイヴィンが友人達とマジックマッシュルームを嗜むシーンがありましたが、ノルウェーでは「合法」なんですかね?それにしても、ユリヤが見た幻覚はかなり気持ち悪かったです。
ちなみに、アクセルが描いていたアングラコミックスの「ボブキャット」、絵はケンケンやガーフィールドみたいな絵柄で可愛いのですが、中身はかなり過激な成人向けの風刺漫画でした。作品は成功し、映画化まで行くものの、フェミニストに「目の敵」にされて、ラジオで糾弾されてしまいます。こういう描写を見ていると、ノルウェーは日本に比べたら「自由」なのかもしれませんが、却って批判の目に晒されることもあると思いました。
しかし、アクセルは末期の膵臓癌に罹って亡くなりました。彼の頼みで、ユリヤは生前の写真を撮影するも、最期は看取りませんでした。生きている人との別れと、故人との別れは全く別物です。人間は、喪ってからでないと、本当に大切なことに気づけないものなのかもしれません。
7. 「今を生きる男女の物語」が驚くほど赤裸々に描かれている。
本作は、「今を生きる」人々の物語です。昔に比べると、価値観が多様化し、「選択の自由」が認められています。しかし、それ故にどれを選択すべきか迷うし、人と比べてしまいます。
例えば、結婚、子供、食生活、自分のルーツへの拘りなど、各々の考え方は千差万別なのです。だからこそ、一緒にいたければ、価値観は同じでなくても、擦り合わせていくことは必要ですね。
これらの中で、とりわけユリヤを苦しめたのは、「結婚と子供」でした。
結婚について、ユリヤの母はシングルマザーでした。父は健在ではあるものの、彼女は屈折した思いを抱えていました。このように、父親への確執はあるものの、心では「父親像」を求める恋愛観故に、年上男性(アクセル)と付き合っていたのかもしれません。しかし、結婚には心のブレーキがかかっていたのでしょう。※ちなみに、マジックマッシュルームの幻覚作用で、父親の幻にタンポンを投げつけたのは、深層心理の現れだと思います。
子供についても、ユリヤは「母性が足りない、愛せないかもしれない」とアクセルに気持ちをぶつけます。これに関して、男女の価値観の違いは如実ですね。子供が10ヶ月もお腹にいる女性と、生まれてから子供に出会う男性とでは、母性や父性が芽生えるタイミングに差が生じるのでしょう。
それにしても、終盤で流産してしまったのは、気の毒でした。
8. ラストの解釈は「観客に委ね」ている。
エピローグにて、ユリヤは撮影の仕事をしていました。(マスクをしていたので、丁度「現代」なのでしょう。)ふと窓の外を見ると、そこにはアイヴィンがいて、さっき撮影に参加した女優と会っていました。そして、二人には子供が。それを窓からそっと見るユリヤの表情で物語は締めくくります。
恐らく、ユリヤの流産後に二人は別れたのでしょう。二人には、「思うこと」はありますが、一つの関係がまた終わってしまったのは悲しかったです。
本作、ラストの解釈は「観客に委ね」ており、ハッピーエンドかバッドエンドか、意見が分かれているようです。
私はそこまで「最悪なラスト」とも思わなかったです。「青い鳥」だったユリヤが、写真家の仕事という、「鳥」(人生の主役)を得た話と考えれば。
結局、「自分探しの旅」って、キリがないです。どこかで理想と現実に折り合いをつけないと、一生かかっても、見つからないものですね。
一方で、パートナーとの別れについて、傍から見れば「逃した魚は大きかった」かもしれませんが、その人にとっては「それが最善の結果」かもしれないんですよね。だから、とやかく言う人がいても、自分の道は自分で切り拓くことが大事です。一方で、「あまりにも周囲を省みずに突き進むと、その反動は大きいよ」ということも伝えてくれる作品だとも思いました。
出典:
・映画「わたしは最悪。」公式サイトhttps://gaga.ne.jp/worstperson/
※ヘッダー画像は、公式サイトより引用。
・映画「わたしは最悪。」公式パンフレット
・ヨアキム・トリアー Wikipediaページhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC