宝泉寺禅センターで学んだこと:今の自分を超える方法とは?
「宝泉寺禅センター3泊4日の基本修行で学んだこと」
ー目次ー
・参加しようと思った理由
・禅修行のスケジュールと内容
・修行からの学び
・まとめ
・これから修行してみたい方へ
参加しようと思った理由
10/7-10/10の3泊4日で、
京都亀岡市にある宝泉寺禅センターにて
基本修行に参加した。
なぜ、今回参加しようと思ったのか。
マインドフルネスを伝える者として、
ルーツとなる仏教の教えを経験していないことは
説得力に欠けると思っていたから。
実は、親が選んだ仏教系の幼稚園で
育ったので、接点はあったはずなのだが、
覚えているのはお寺での座禅の時間が
苦痛で仕方なかったことと
毎年恒例行事だったお釈迦様の劇で、
紙で作った天竺へ向かう象を引っ張るのが楽しかったという記憶のみ(苦笑)
マインドフルネスを伝えて早3年。
アメリカと日本でマインドフルネスを学ぶ中で、
そのルーツやエッセンスを習得し人に教える仕事をしてきたが、
年間400レッスンくらいする中で気づいてきた。
教え自体の浅さと薄さに・・・
それも仕方ないのだ。
なぜなら、マインドフルネスの歴史は、
約40年しかないのに対し、
仏教の歴史は実に1500年以上。
さらに、その仏教の元となったヨガの発祥は、
インダス文明・・・つまり、4500年前。
マインドフルネスは、アメリカ人のジョン・カバット・ジン博士により
ヨガと仏教の宗教性を排除し、万人に良さを伝えられるようになった代わりに、
仏教の叡智とも言うべき、釈迦の教えや修行の真髄も削ぎ落としてしまったから。
その失われた叡智・・・本や講座でしか理解していなかった「仏教の真髄に実際に触れてみたい」という思いで、申し込みをした。
禅修行のスケジュールと内容
京都駅から嵐山、保津峡を通り越してすぐの馬堀駅から約20分。
住宅地を抜けた山の上にポツンとある宝泉寺。
私を含めて、その日の入山者は3名。
25歳の会計士バリキャリ女子Sちゃんと、60代の男性Oさん。
Sちゃんとはすぐ仲良くなり、一緒に嵐山観光に行った。
「仕事への集中力を上げたくて」という動機に思わず感心してしまった。
入山者はまず、常住といわれる長期滞在している先輩修行者に
食事の作法や建物の利用のマナーなどを学ぶ。
その後、和尚さんに「修行のコツは一生懸命やること」と言われ、
どんなに辛くても一生懸命やろうと心に決める。
ー禅修行のスケジュールー
5:20 開静(起床)
5:40 八段錦(太極拳)
6:00 座禅(25分×2)
7:00 朝課(お経)
7:20 掃除
7:50 粥座 (朝食)
9:00 作務(畑仕事や草むしり等)
12:00 斎座(昼食)
12:40 自由時間(外出可)
17:00 薬石(夕食)
18:45 仏教聖典拝読
19:00 座禅(25分×3)
20:30 自由時間(入浴)
22:00 開枕(消灯)
大体上記のようなスケジュールで、
朝は5時台から始まり、22時には消灯。
朝は、太極拳の前に希望者で「歩く瞑想」があり、
まだ夜明け前で薄暗い中、御堂の前を皆で練り歩く。
約1時間の座禅の後はお経。
これはずっと正座でやや辛い。
しかも、長いお経の後、五体投地という立位からひれ伏すハードな礼拝があり、足が痺れている体にはなかなかしんどい。
それが終わると、1回目の掃除だ。
担当場所が割り当てられ、先輩に習い、
シャワー室や禅堂、トイレなどをピカピカに磨き上げる。
和尚さん手作りの朝食をいただいた後は、
約2時間の作務(奉仕活動)がある。
まだ暑さの残る中、落ち葉拾いや草むしり、畑仕事をする。
途中で茶礼と言われるお茶とお菓子が出る
休憩の時間があるのが有り難い。
昼食は、作法もなく、バイキング形式で
緊張せずに食べられる。
怖かった和尚さんの親父ギャグなどチャーミングな一面が見れる笑
午後の自由時間も3時間くらいあるので、
好きに使える。(私は2日間とも嵐山に行って、観光を満喫した)
夕食が終わると、約90分の座禅とお釈迦様の本を読経する時間だ。
座禅中は、座り方、手の組み方共に指導が入る。
希望者は警策(肩をパーンと棒で叩いてもらう)を受けられる。
終わったら、すぐシャワーに入り寝る準備だ。
希望者は就寝時刻前まで談話室でお茶ができる。
宿泊は、幸いコロナで人数が少なかったので
キャビンと言われる木でできた小屋のような個室が与えられた。
(人の寝息とかイビキとか気になっちゃうのでホッ)
ただ、明け方猿が出て小屋に石を投げられたり、
鹿が遠くで「キャー」っと鳴いていたり、
ドアにヤモリが張り付いていたり、かなり自然溢れる場所である。
(熊が出たと言う目撃情報も😭)
朝は、男性の手の平サイズのムカデが女性の洗面所の排水溝から出てきて
虫が苦手な私は、目が点になったことは言うまでもない。
本堂での座禅中も、見たことない虫や蚊がブーンと飛んでくる。
虫も一緒に法話を聞くのかと思うくらいやってくる。
これは4日間ずっと慣れなかった・・・
修行からの学び
全体を振り返って、一番学びだったと思うことは以下だ。
「食事作法の厳しさが教えてくれた、今の自分を超える方法」
食事作法が一番記憶に残っているし、大変な思いをしたが、最も学びがあった。
初日にビデオを見ながら学ぶが、手順が多く複雑で慣れるまでに時間がかかる。
(間違えると全員の前で正しくできるまで注意され続けるというおまけ付きだ)
基本的に持鉢(じはつ)と呼ばれる大中小の器と布巾、箸袋と箸と、食器を拭くようのミニ布巾をワンセットとして、茶道のような使い方の作法がある。
食器の置き方、食事の取り方、箸の付け方、食べ方、お代わりの仕方に至るまで、細かく作法があり、間違えたり気が逸れていると和尚さんから喝が飛んでくる。
初日は緊張で味なんて分かったものではない。
食事中はずっと正座で、食事後も器の洗鉢というやや難易度の高い作法がある。(水で洗うのでなく、器に湯を入れ、一切れの沢庵を使って
汚れを落とし、布巾で拭き取る。また、器に手をつける順番や持ち方、重ね方、包み方も作法だ)
つまり、初めから終わりまで作法のオンパレードなのだ(笑)
さらに、食事の時間も3分ほどで前からいる修行者達は食べ終わるため、
いつも最低30分ほどかかる私には想像を超える試練であった。
(朝の粥座に至っては体感値30秒であった😭)
団体行動が基本の禅修行、最後の一人が食べ終わるまで皆が待つ。
作法も当然モタモタしていれば、皆の動きを遅らせることになる。
初日の鈍臭さと翌朝の粥座で粥を3粒残し、和尚さんに
大目玉をいただいた私は心の中で悔し涙を浮かべながら考えた。
「なぜ、自分はこんなにも機敏に動けないのか・上手くできないのか」
朝食の後の作務の間、落ち葉を集めながら考えた。
大人になって久しぶりに味わう挫折感。
こちらの気持ちを察したように「ニャー」と甘えてきてくれる、
お寺によく遊びに来る猫に心癒される。
やがて、一つの答えに行き着いた。
自分の中の不平不満(自我)が邪魔をしているということだ。
「もっとゆっくりご飯を食べたい」「初日でルールを全部できるわけがない」「お粥をこの太いお箸で食べるなんて不可能」「このくらいでいいだろう」「集団行動は苦手だから仕方ない」
などウダウダ文句や理由をつけて、自分の行動を遅くする・怠けようとする考えが
自分の中に渦巻いていたことに気付いた。
そして、もう一度「修行のコツは一生懸命やること」というセリフを思い出した。
人からやらされる修行では意味がないのだ。
至らなさを受け入れ、自ら困難に向かっていかなくては。
それ以降、自分がもたつくだろうタイミングで、
上手くやっている人や行動が速い人をよく観察し動作を真似するようになった。
よく観察すると、作法の規則性や合理性が見えて次の行動を予測できるようになった。
全然使っていなかった脳が動き始めるのを感じた。
至らない自分を受け入れ、すぐに行動を修正する。
目の前の不都合な現実に、文句を言っていても何も変わらない。
出来るか出来ないかは頭で考えていてもわからない。
自分の現在地を受け入れ、改善しようとするから智慧が出るのだ。
禅もビジネスも、人生も同じだ。
2日目の夜、3日目の朝には、一度も注意されずに、遅れることもなく
食事をすることができ、新参者に作法を教えてあげられるくらいになった。
自分の中で小さな達成感を感じた。
怠惰な自分という足枷を外し、過去の自分に勝つ。
そんな経験ができたように思う。
"ものごとをあるがままの姿で受け入れよ。
起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である。"
ーウィリアム・ジェームズ(心理学者)
まとめ
自分を超えるには、至らない自分を受け入れ、
とにかく目の前のことを一生懸命にやることが
一見遠回りのようで最短ルートなのだ。
一生懸命にやるから智慧が出る。
いつの間にか、過去の自分を超えている。
人生の教訓にしたい、非常に深い学びを得たと思う。
不立文字(ふりゅうもんじ)
達磨大師が伝えた禅の心は、「不立文字」と言われた。
すなわち、「文字を立てることができない」=言葉では伝えられない。
レッスンの中で、伝えようと試みたが言葉が上滑りしているのを感じていた。
それは、禅の心はいくら言葉で丁寧に表現しようとも、
体験して自分自身で感じてみないと本当の理解はないからだ。
だから、これを読んで興味をもった人はぜひ自分の身を持って体験して欲しい。
きっと、その時その人にとって必要な学びがあるのだと思う。
宝泉寺という宝の眠る泉で、何を得てくるかはその人次第。
でも、一生懸命やると、きっと今のあなたにとって必要なものが得られるはずだ。
The only source of knowledge is experience.
知識の唯一の源泉は経験である。
ーアインシュタイン
これから修行してみたい方へ
禅修行に興味がある人
特に初心者の人には、宝泉寺を強くおすすめしたい。
理由は以下だ。
1ウォシュレットトイレがある(大事だよね!)
2食事が美味しい(肉魚はないけれどレシピを教えて欲しい料理ばかり)
3和尚さんがチャーミング(修行中と昼食時でギャップがある)
4参加者の皆さんからの学びが多い(これは次で書く)
5息抜きのタイミングが多くある(長めの休憩時間やお茶の時間など)
6とっても良心価格(3泊4日で1万円という懐に優しい料金設定)
私が過去に戻れたら、
社会人1年目の時に受けさせてあげたい。
組織の中で生きる上で大切な心構えが身につく。
でもきっと、行く度に違う気づきがあるだろう。
これから仕事に就く人、今の仕事や人生に迷いがある人、
自分自身を見つめたい人はぜひ行ってみるのをお勧めする。
【お勧めの持ち物】
・虫除け(忘れて足を刺されまくった)
・軽いジャケット(結構朝晩の温度差あるので防寒しっかり)
・日焼け止め(お化粧は禁止。眉くらいは大丈夫)
・バックパック(スーツケースだと駅から坂で結構遠いので大変)
・汗拭きシート(シャワーは1日1回しか浴びれないのであると安心)
【周辺情報】
・嵯峨嵐山駅まで2駅なので観光もできる!
・トロッコ電車が楽しい!
参考
なぜ、作法がこんなに多いのか疑問に思ったので、調べてみた。
臨済宗の教えでは、
修めるべき項目として三学がある。
戒・定・慧(かい、じょう、え)だ。
戒は、仏道の悟りに向かう道徳的規律、
定は、心の集中、
慧は、真実の道理である。
仏教徒は、戒、定、慧の順番で、修練を積んでいく。
修行生活をこの3つに当てはめると、
戒=修行生活を厳しく律する規則で心構えを養う
(起床から就寝までの一定のリズムや時間や役割、
作法などを守ることで修行の心構えを身につける)
定=座禅や読経、食事作法などを日々繰り返し、持続的な集中力を養う
慧=禅の悟りに至るまで、たゆまぬ工夫をする
禅修行により禅定力(ぜんじょうりき)と言われる力を鍛えるのだ。
道場では静かに座る坐禅で、生活では作務や食事作法・読経など動きの中で、
静中、動中の両面から禅定力を鍛えていく。
マインドフルネスも、静と動の両面から
精神鍛錬をしていくという点では同じだ。
禅修行はややハードだからこそ、
つらい側面もあるが変化や気づきが速い。
たかが、3泊4日で仏教の真髄が理解でき、
悟りが開けたとは思わない。
ただ、禅定力を少し磨くだけでも
自分の思考や行動に無駄がなくなった。
一生懸命に目の前のことをやることは
なんとマインドフルであろうか。
今後も、得た学びを日常に活かしたい。