1日10時間瞑想するヴィパッサナー瞑想体験記
全世界30拠点以上で経営者や政府関係者も実践する
ヴィパッサナー瞑想
ゴールデンウィークに京都で10日間のヴィパッサナー瞑想合宿に参加してきた。
日本では、千葉と京都の2拠点にあるこのコース・・・
毎日10時間以上の瞑想、かつ10日間一言も話せないという
過酷なコースにも関わらず、大変人気で全然予約が取れない。
行くと決めてからスケジュールを確保し、申し込み開始と同時に登録。
幸いにも、予約が無事通り、おそらく最も人気なこの時期に参加できた。
約2週間と長期お休みをいただくにも関わらず、
理解あるクライアントの方々に快く送り出していただき、新幹線で京都入り。
京都駅から約1時間、電車とバスを利用して送迎がある桧山駅まで向かう。
10日間の合宿(約12日分の持ち物)とあり、巨大なスーツケースを
持つ人がちらほら見られ、参加者かどうかすぐ見分けがつく。
スマホなし会話なし!ひたすら自身と向き合う
10日間の瞑想合宿
今回は男女16名ずつ、新参者(新しい生徒)とリピート参加者(古い生徒)が
参加した。スペイン人やミャンマー人、台湾人など、
参加者の人種も年齢も幅が広い。
英語と日本語のバイリンガルでプログラムは提供される。
到着してすぐ、スマートフォンや本、手帳やペン、お財布は回収される。
翌日から参加者同士の会話は、一切禁止だ。
完全なるデジタルデトックス、サイレントの中でひたすら自分自身と向き合う。
2〜3日経つとあまりの手持ち無沙汰に、宿舎に貼ってあるポスターなどを隈なく読み始めようとする自分がいた。
5月にも関わらず、山奥は気温が低い。
夜にもなると、湯たんぽとパーカーが手放せない。
4時起床、9時半就寝。食事は全て菜食で、朝昼2回(バイキング形式)、
夕食はなし(夕方にバナナと夏みかん半分が出る)。
メニューは、基本的に玄米、漬物、味噌汁、おかず2品とシンプルだ。
飽きないように、毎日メニューを変えてくださることがありがたい。
最初は何か物足りなく感じた菜食生活も、慣れてくると、
湧いてくる雑念や欲望が減り、体が軽く感じることに気付き、
自分が体に取り入れるものと心身が密接に関わり合うことを体感する。
宿泊場所はホテルではないので、ベッドメイキングも洗濯も、ゴミ捨ても、
洗い物も全て自分達で行う。休憩時間を上手くやりくりして、
交代でシャワーに入ったり、外に出て軽い運動をしたり、
限られた時間を大切に使う。
食後に、マグカップにコーヒーを入れて散歩しながら
空や山の木々を眺めたり、水の流れをただボーッと見つめたり、
スマホやパソコンから離れると、自然とあるものの美しさに気付く。
私は、瞑想実践者ながら朝も夜も遅い。普段であれば、
4時など起きたことのない時間だが、緊張感からか不思議と目が覚める。
待つのがあまり得意でないので、朝も食事も一番のりになることが多く
まだ星が瞬く中、白湯を飲みながらゆっくり静けさを味わったり、
食事も混雑する前に楽しむことができた。
世界中で大人気の瞑想コースを体験して感じた変化
このコースは端的に言うと、ダンマを学ぶプログラムだ。
ダンマとは、パーリー語で「法」、
少しわかりにくいので「自分の中に安らぎと調和を育み、
周りの人と分かち合うスキル」と言うとわかりやすい。
全て創始者であり実業家のゴエンカ氏による音声プログラムで、
男性と女性の指導者が一緒に参加するが、
あくまで希望者の質疑応答に対応するのみでレクチャーなどは行わない。
マインドフルネスの観点とは異なる部分も多くあり、
最初は違いが気になって逐一質問に行っていたが、
「頭で理解するよりも体で体験する方が大切」とアドバイスをいただき、
つい理論に走りがちになる自分に気がつく。
もうこれは徹底的に初心に戻る良い機会だと思い、
言われた通り考え過ぎず、とにかく素直に実践を心がける。
最初の3日間はひたすら、呼吸瞑想(アーナパーナ瞑想)。
スマホや会話がないことで訪れる心の平穏の中でも、
「終わったら京都でパフェが食べたいな」など雑念が浮かんでくる。
意識の向け先を特定しないマインドフルネスとは異なり、
鼻の下(上唇周辺)の1点に意識を集中させるのが特徴的であった。
4日目からはいよいよヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)に入る。
ここでは、自分の中の反応がどう変化をしていくのかまで観察する。
例えば、座り続けて足が痛いとしたら、足の痛さにただイライラするのでなく、
その痛みや、イライラしている気持ちも観察していく。
すると、不思議とその痛みはやがてなくなったり、形を変えていくことに気がつく。まさに、これがコースで言われ続ける、アニッチャ(無常・・・全てのものは移り変わる)という感覚なのだと体験した時には、感動があった。
そして、コース6日目には、これまでのボディスキャン瞑想とは全く異なる
ゾクゾクするような体が開通する感覚があったり、体の奥に潜んでいた記憶と繋がったり、自分の本当の願いや望みに気がついたり、考えているときに左脳がドクドク脈打つような感覚が訪れるなど、とにかく自分の無意識レベルに深くアプローチし、身体感覚を研ぎ澄ませることで、自分の中に息づくさまざまな真実に気がつくことができた。
最後に辿り着いた「私」のない世界 / 悟りとは何か
コース後半から、アディッターナという「決意の時間」と呼ばれる
1時間一切動いてはいけない時間が、1日3回設けられる。
この教えの元であるブッダもまた、「何があっても座り続ける」という覚悟がなければ悟りに至ることはなかっただろうという講話に、覚悟の大切さを痛感する。
この段階に行き着くと最初は苦痛でしかたなかった1時間の瞑想タイムが
さほど難しいことでなくなってきていた。
いよいよラスト1日となった、9日目の夜、その瞬間は訪れた。
人間の体は素粒子でできているという講話を聞いたせいかもしれない。
「悟りというものが本当に存在するのだとしたら、きっとこんな感覚だろう」と
思うような、透き通る静かで平和な世界。
「私」という存在はただの幻想で、素粒子のさざ波が静かに揺れていた。
慶應義塾大学の前野隆司先生の「幸せとは何か/悟りとは何か」によると
悟りは次のように語られている。
つまり、自我への執着を無くした時に、初めて訪れる身体感覚が「悟り」。
このコースでは、10日間という短い期間で「悟り」という感覚を
一瞬でも体験できるよう作られているし、
やや難解さはあるものの「それがどんな感覚か」「どうしたら悟りに至れるか」は
割と丁寧に音声の中で指導される。
やり方はわかっても、実際に体感できるかは恐らく個人差があるが、
この感覚がわかると本当の意味で「執着の無意味さ」「心の静寂」が理解できる。
まとめ
今回、このコースに参加できて、
改めて瞑想の奥深さと人生を変える力があることを体感し、
また、今の仕事への思いをさらに確信に変えることができた。
ただ、副作用なのか、このコースの終了後、
元々持っていた「手に入れたい未来や目標」について
モチベーションがかなり減ってしまったのは想定外だった。
それぞれの人生のタイミングで様々な気づきが得られると思うので
興味がある方はぜひ、参加して自分で体験してみると良いと思う。
コースの参加費用は、お布施で成り立っているので自由に決められるので
どんな人でも参加しやすい。
最後に、ゴエンカ氏が語っていた「このコースをお布施にしている理由」が
とても心に染みたのでシェアしたい。
元々は、托鉢(たくはつ・・・「修行僧が家々を回り、ご飯を与えていただくという修行」)から来ているようだ。もちろん、施しなので、「これが食べたい」「あれは嫌だ」などとは言えない。それぞれの家庭からいただけるものを、ありがたくいただくのがこの托鉢の修行だ。
「人はお金を払うと、自分の期待に見合わなかった時に不平不満が出る。
当たり前だと思うと、当たり前でないことが起こったときに苦しみが発生する。
いま自分が受け取っているものを、有り難くいただく、この心が大切なんだ。」
今ある環境・仕事・人間関係・体も全て、いま自分が受け取っているもの。
それらは、決して当たり前ではないこと。
足りないものばかりに目を向けず、どんなことも「ありがたく受け取る」心を
今後も育てていきたい。