どうしていつも、春に着ていく服が無いのだろう。
春はいつだって気まぐれに訪れる。
昨日はしとしとと静かに雨を降らせていたかと思えば、今日は上着の要らない程の暖かな日差しに包まれる。背中に受ける太陽のまなざしは、柔らかくて気持ちいい。
毎年思うことなのだけれど、春に着る服がない。
クローゼットには服がたくさんあって(そのうち断捨離しようと思い、分別はしている)その中には厚いものも薄いものも、明るい色も暗い色も一通りあるはずなのに、「春に着る服」だけが無くて困っている。
去年は一体、何を着ていたんだろう。
一年前の春を思い出してみる。出かけた場所、食べたもの、観た映画、思い出してもそこに、春の服は無かった気がする。私たちを脅かす未知のウイルスが、日本全体へと広まり出した頃だ。
そこまで思い出して、春になると毎年のように「去年は一体何を着ていたんだろう」と頭を悩ませていることにも気づいた。
*
社会人一年目の春。私は東京にいた。それも銀座の近くに滞在していた。
日々の業務が終わると銀座で夕飯を済ませ、ホテルの窓から赤く点滅する東京の夜を眺めていた。
週末もそれは同じことで、お散歩がてら歩いて銀座の端っこに向かい、適当にお昼ご飯を済ませ、本屋さんで本を調達し、パッとしない薄色の青空を眺めながらホテルに戻り、湯船にお湯を張って入浴剤をポイポイ投げ入れ、さっき手に入れた本を読みながらのんびりお風呂を楽しみ、お風呂から上がって窓から入ってくる街の喧騒とそよ風を浴びながらお昼寝をし、再び夜が来ると銀座(やっぱり端っこ。真ん中はにぎやかで、私にはちょっと怖い)に繰り出してはお酒と安い中華を楽しんだ。偉い人が一緒だと、高い中華を食べた。
そんな日々でどこかに出かける必要もなかったし、偉い人とお食事を共にする場合はたいていスーツを着用していたので、私服に困ることはなかった。
ところが、気まぐれに春はやって来た。
5月の大型連休を前に、デートに誘われたのだ。ヨコハマというお洒落な場所に行くらしい。どうしよう。着る服がない。退社時間と共に慌てて銀座に駆け出した。
普段からファッションには疎く、自分に似合っている服もよく分からない。中学時代は部活に明け暮れていたので私服を持つ必要がなかったし、高校は逆に引きこもりだったので、これまた私服が必要なかった。
大学に入って古着に興味が出てきて、俗にいう「サブカル女子」みたいな格好もしていたが、ある日急に「何をやっているんだろう」と目が覚めたようにダボっとした古着から手を引いた。
残ったのはシンプルで、そっけない服たちだった。園児がクレヨンで描くような、色だけのある服。無印良品やユニクロで手頃に買えるような服。
困ったなあ。5月を直前にした東京の街は、少し汗ばむ。かといって、半袖はまだ早い。世の中の人たちは一体、この季節に何を着ているのだろう。
そんな中辿り着いたのは、とあるセレクトショップだった。私はそれがBEAMSであることを後で知った。
言わなくても「会社帰りです」と物語っているスーツ姿で店内を見渡す。ああ、困った。洋服がありすぎる。一体どうすればいいんだろう。
お仕事帰りですか?と女性のスタッフに声をかけられる。愛想がよく、金髪姿にピンクのワンピース姿は、なるほどこの街にふさわしく個性的で素敵だった。
デートに誘われたのですが、着て行く服が無くて…というと、彼女はとびきりの笑顔を浮かべながら「私にお手伝いさせてください!」と張り切ってくれた。
結局選んだのは、ユニセックスなジャケットだった。厚手とも言える薄手とも言える、絶妙なジャケット。リネンで出来た生地は張りがあって、生成りの(コーヒーで染めたような控えめなブラウンにも見える)素晴らしいジャケット。
襟元がまあるくなっているので優しい印象もあり、ボタンがころんとしているので可憐にも見える。シャキッと背筋が伸びるような、それでいて、ゆるっと気持ちが綻ぶような、とにかくいろんな表情を見せるそのジャケットはすぐにお気に入りとなった。
デートうまくいくといいですね!と店員さんに背中を押された。
結局、デートはうまくいかなかった。
デートは彼の方から誘ってくれた。恋人がいるわけでもなかったし、恋愛をする気分でもなかったけれど、せっかく東京にいるのだ。見知らぬ土地で出会った男性とどこかに出かける、浮ついた連休があってもいいだろうと思って快諾した。
ヨコハマとかいう街でのお洒落なデートは、私のその後を左右するほど、忘れられない悲しい出来事になった。福岡とかいう田舎から出てきた私に、あんまりじゃあないかという仕打ちを受けた。
私がぐるぐるに巻いていた包帯を、彼は気まぐれにほどいた。それだけでは飽き足らず、傷口に塩をえいやっと塗り込んできた。この塩、体にいいんだよ、とかいうワケのわからない理由をつけて。
気まぐれに引き受けたデートで、私はひどく傷ついた。人を簡単に信じちゃいけないということを学んだ。
と同時に、おそらくそのプライドの高さから他の人には言っていないだろう彼の「弱み」も見てしまったので、まあいっか、と割り切った。
そんなこともあって、リネンのジャケットは今でも苦い思いをしながら袖を通している。
そろそろ忘れていいんじゃないかとも思うし、むしろ手放してもいいのではないかとも思うのだけど、なんせひどく気に入ってしまったものだから、手放せずにいる。
ポッケに両手を入れるとちょうど「前にならえ」の一番前の人、みたいなポーズになるところも気に入っている。
人に裏切られる冷たさが左のポッケに、選んでくれた店員さんの暖かさが右のポッケに入っている。
屍のように積み重なる断捨離の山を逃れ、ハンガーにしっかりと身を預けてお行儀よくクローゼットで眠っているリネンのジャケット。私が春に着ていく洋服は今のところ、この一着だ。
スプリングコートが欲しいな、と何年も思っている。
ちょっと重みがあって、でも軽やかで、足首が綺麗に覗くような、春みたいなコート。欲しい、欲しいと思っているうちに、いつもすぐに汗ばむ季節になる。
スプリングコートは「欲しい」と思った時には遅い、贅沢なアイテムだと思う。着ていられる時期が少ない分、少しくらい値が張っている方が良さそうだ。
春はいつでも、気まぐれに訪れる。
今年の春も、あまり遠くへは出掛けられそうにない。スプリングコートは必要ないかもしれない。
でもきっと、来年は。次の春こそは。
スプリングコートをひるり翻して出掛けたい。どこまでも遠くへ、気まぐれに、思いつくままに。
2021.03.17 k i i a