いのちのまつり
オアシスが再結成した。
きっと5年後あたりに”ここ最近”の日々を思い出す時はオアシスが再結成した日をわざわざ検索して「ああ、あの出来事たちはもう5年も前の事なのか」と思い出すのだろうな、と思う。
一週間程前、長野の山奥の野外パーティに参加した。12年に一度のドランゴンイヤーにしか開催されないというこのぶっ飛んだパーティの告知を見た時、「次の開催は12年後か、生きてるかな」とただ思った。
そう思ってからの行動は早く、チケット枚数選択の画面と一瞬睨めっこしてから「1」を足早に押した。
色んな祭りに行ってきたけれど、
この祭りは確かにヤバかった。
誰かが言っていた。
”戦争”の対義語は”祭り”だと。
三日間にわたり行われたこの”NO WAR 騒ぎ”は、生きているとつい失われてしまいがちな「童心」や、「細胞で悦びを感じる事の尊さ」を体感させ、取り戻させてくれた。
ピースフルな空間。
ドレッドヘアのおじさん達が赤い目を擦りながら、車椅子の参加者を車椅子ごと担いでフロアに送り届けている。
毛が真っ白な犬は土の泥濘みで全身を真っ黒く染め、それを見てはしゃぎ笑う小さな子供たちの声がくすぐったく私の耳に届く。
初めての場所なのに、何故だか懐かしく感じる。
「ただいま」と言ったら、誰もが「おかえり」と返してくれそうだ。
人が本当に心から笑っている時の口角の上がり方をした大人達が少しだけ狂気的にも感じられるけれど、その人達が笑った時に現れる目の横の皺が私に「生命の刻み」を訴えかけてくる。
「この先も笑っていられたらいいねー」と急に大声で叫びたくなって、”縄文エリア”たる所で試みてみたけれど、思いの外、か細く掠れた声しか出なくなっていた自分に笑えた夜をこの先も覚えておこう。
「今にも死にそうだった奴が案外生き残って、1番ピンピンしていた奴がコロッと死んじまうんだから人生こわいよなあ」と言っていたおじさんの手前、だから面白いんじゃんとうすら笑う。
ただ、少し早めに幽霊になってしまった私が「なんで私がこんな目に」と思ってしまったら負けだと思うので、生きている最中から悪い事は極力しておきたい。
そうすれば、「なんで私がこんな目に」の後に「ああそっか、そりゃそうよね」と納得してうまく成仏できそうだからだ。もちろん悪い事とは言っても非道徳的な事でもないし、たかが知れた事だ。
それにしてもどうやらこの祭りの最終日に、会場のビルの3階から飛び降りて空の彼方へ連れてかれてしまった人がいるらしい。
元々死にたい願望が、あったそうだ。
その人の最後の顔はどんなだったかなとふと考える。納得して成仏できたかな。今幸せかな、とか。考えれば考えるほど、「死」に対してだけは曲解せず向き合っていきたいと思わされる。
あんなに人がたくさん居た中で、彼(もしくは彼女)は、何を想って空を飛んだのだろうか。
私は時々、幸せすぎる時に死んでしまいたい衝動に駆られる時があるけれど、彼(もしくは彼女)も一緒だったのかな。
今が辛いのが痛いんじゃなくて、この先のいつ来るか分からない辛くて痛い出来事が怖くて、この幸せのまま終わらせてしまいたい。って思ったのかもしれない。
この出来事はきっと皆んなに「いのち」に対しての考えを巡らせるものにもなったはずだ。
だから、決して無駄にはしたくないし、自分の命も無駄なものにはしたくないと再度思った。
私はいつ来るか分からない膨大な辛くて痛い出来事を、煙草を咥えながら今か今かと待ち構えてやろうと思う。そうしながらも、もう片方の手では祭りを楽しもうと思うよ。
レストインピース。
次の「いのちの祭り」の開催は、12年後。
誰とどこで何をしているかな。
この地球に存在していられてるかな。
行けても行けなくても、生きていても生きていなくても、魂だけでも遊びに行こう。
すべての生きとし生けるものに、人差し指と中指を突っ立てて、また裸足で土の泥濘みの中を踊りたいな。
ありがとう