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そこに、何があるんや

「庭の柿がやたら沢山出来ちゃって、少しばかりもらってくださる?」

「あら、それなら昨日作りすぎちゃった筑前煮を私も少しばかりお裾分けしますわ」

こういう会話をしたいってのに
私がする会話といえば、

「いや〜昨日も飲みすぎちゃったし、今日はやめとくわ」とかの会話だ。

要は、まだ二十代をやっているわけであって。
柿と筑前煮の会話が生活の中で出てくるとしたらあと早くても四十年後とかの話なのかもしれない。もしくは早々に東京を諦めて山奥にでも越すかだ。

「目的と手段」これで世界は成り立っている訳だけど、好きな音楽を聴いている時や本を読んでいる時、その瞬間には”好き”以外の何も詰まっていない。
ただ、現代社会、“好き”以外で成り立っている瞬間があまりに多すぎる気がする。

要は、「この場所が好き」なんじゃなくて、「この場所に来ている自分が好き」。
SNSというものが罷り通ってからの話、自分の好きが迷子な連中が増えてきた。
こんな言い草しながらも、少なくとも私もその中の一員である事は間違いないし、アナログ世代の先っぽを少しばかり齧るくらいの所からがスタート地点の若僧である事も明確だ。

でもね、庭の柿と筑前煮の話じゃないけれど、何も生まれてないようで何か生まれているような自然なやりとりや関係って、絶対に必要不可欠で、AIや SNSに無いあたたかいものをもっと生身で感じていく必要があるわけだと感じているわけで。それもこの若僧がね、思っているわけです。
“便利”だけに侵食されていくつまらない大人達が何やら生まれてくる子供達によからぬ事を吹き込んでいる気がしてならない。
これ以上、そういう人間のエゴで無駄(便利)なものを増やしちゃいけないと思うんです。




「これまだ見てないの?」
「まだ、見てないんだよね」

こういう会話しちゃうよね。
別に見なくたっていいのにさ。
「まだ地面師見てないわー」とか。

その“まだ”って“みんなが見てるから”以外の何でも無いんだよね。

これ、一月号の文藝春秋で若ちゃんと國分功一郎先生の対談のページなんだけど。

なんか、まさに私もこの会話しちゃったなって、腑に落ちつつ自分に落ちました。
もうなんだか「生産者側に足元見られちゃってんだー」とかなってまうよね。こうなったら.....。
悔しがるところ、訳分からないけど悔しいです。

冬でも半袖着て強がってる小学生並みに、なんか私も今の社会のあり方に抗って生活していきたいみたいです。今更アンパンマン見返してみたりしてね。インポータント イズ ドウシン。



だからといって別に現代社会を真っ向から全否定したい訳でも、昔(の時代)を100パーセント肯定したいわけでもない。
ただ、私はただ、もっと愛で行動するべきだなと感じる事が多いという事を話したかったんだと思う、思います!

「お前といても何も生まれない」
「これしてても金にならない」


確かに、生きていく上で生産性は重要といえる。だけど、最重要なのだろうか。
私は、「そこに愛はあるんか?」という女将さんからの問いに胸を張って「ある!愛ある!」と言いたいところです。


何かを生み出そうして生まれるモノと、
生産性なんて無視して愛で行動してたまたま出来たモノの尊さを、利便性重視のこの現代社会で生活する私たちはもう少し感じるべきなのかもしれない。



まあこうして長々と書いてる私が完全迷子状態なんですけどね。
そもそも私に関しては「生産性、もうちょい頑張れよ。」と言われてしまったらそれまです完全。

有限の中で無限を見つけられるのが、人間。

とあるバンドの誰かのセリフを捨て置きしてドロンします。

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