Münchner Philharmoniker 12.05.23 コンサートの記録:ソキエフ指揮ミュンヘン・フィル(5月12日、ミュンヘン・イザールフィルハルモニー)
5月12日、トゥガン・ソキエフ指揮ミュンヘン・フィルのコンサートを聴きました(ミュンヘン・イザールフィルハルモニー)。
プログラム。
マーラー作曲《大地の歌》を世界初演したのは、ミュンヘン・フィルの前身である「ミュンヘン・コンサート協会オーケストラ」でした(1911年11月20日、トーンハレ)。指揮はブルーノ・ワルターでした。
マーラーとミュンヘン、そしてミュンヘン・フィルは深い関わりを持っています。
マーラーが初めてミュンヘンで指揮したのは1897年3月24日でした。作品はベートーヴェン《交響曲第5番〈運命〉》。
ちなみにマーラーは指揮者であり、作曲は本業の合間に行う、いわゆる『日曜作曲家』でした。
マーラーは1894年に創立されたカイム・オーケストラ(今日のミュンヘン・フィル)の客演指揮に招聘されました。これはカイム・オーケストラの首席指揮者のテストでした。
ところがオーケストラとマーラーはお互いに理解しあい、良い関係を築くことができると確信したのにも関わらず、マーラーは「不合格」でした。
理由は批評が良くなかったからです(ちなみに批評がここまで影響力を及ぼすというのは現在では考えられません)。
しかしマーラーと同オーケストラとの関係はその後も良好で、マーラー自身の指揮による1900年10月の《交響曲第2番〈復活〉》のミュンヘン初演は大成功。
これに続き、1年後には同オーケストラで《第4番》の世界初演を指揮します。
ただ、これは期待に反して、成功だったとは言えません。
理由は、高い演奏技術を必要とされたのにオーケストラが十分応えられなかったこと、聴衆が育っていなかったことにあります。
ちなみにこれは今でもよくあることです。特に、《4番》ではコンサート・マスターの演奏技術が大きく問われます。
その後1908年、カイム・オーケストラは解散、コンサート協会オーケストラにより、《交響曲第7番》が世界初演されます(マーラー指揮)。
マーラーの頂点は《交響曲第8番〈千人の交響曲〉》世界初演の大成功でした(ミュンヘン、1910年9月12日)。場所はノイエ・ムジーク・フェストハレ、座席数3200のホールは完売でした。
聴衆の中にはトーマス・マン、R.シュトラウス、レオポルド・ストコフスキ、オットー・クレンペラー、アントン・ウェーベルンなどもいました。
ところでマーラーは、『9番ジンクス』を信じていました。つまり、ベートーヴェンやブルックナーのように、交響曲9番作曲後に死んでしまう、というジンクスです。
8番を作曲し、9作目の交響曲を《9番》とせずに《大地の歌》とした理由もここにあります。
実際、マーラーには《大地の歌》作曲にとりかかる直前、不幸が続きました。
まず、1907年6月、ウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)の職を去らなければならなかったこと。
マーラーはウィーン宮廷歌劇場の芸術監督を10年間務めました。マーラーは芸術監督として革新と刷新を進め、大きな業績を納めましたが、ウィーンでは逆風が強く、アンチ・マーラー・キャンペーンは激烈を極めたのです。
マーラーの有名な言葉に「伝統は怠惰」と言うのがあります。
しかし逆を言うと、そんなウィーンの人たちがマーラーを追い出すのに10年もかかったわけです。
傷心のマーラーはヴェルター湖畔で過ごしますが、そこで娘のマリアがジフテリアで7月12日に亡くなります。
その6日後、マーラーは心臓発作を起こします。生まれつきの弁膜症でした。
これが原因で4年後の1911年5月18日、50歳で亡くなります。
ミュンヘンで行われた《大地の歌》の世界初演はマーラーの没後、1911年11月20日でした。マーラーへの追悼でした。
(*ここまで、当日のプログラムも参照しました。)
さて、マーラーの命日に近い5月12日のイザールフィルハルモニーはほぼ満員、聴衆は大きな拍手でたたえました。
最近、アレーナ型のホール(客席がステージを取り巻く形)ではオーケストラも後ろを向いて挨拶することが珍しくありません。
FOTO:©️Kishi
以下はミュンヘン・フィルから提供された写真です。
credit: Sebastian Widmann
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
カルチャー・コンサルティングについてのお尋ね、ご連絡は以下までどうぞ。
Kishi Culture & Media Consulting Companie UG
代表:来住 千保美(Chihomi Kishi)
info@kcmc-music.com
ご興味のある方は以下の投稿をご覧ください。