読書日記断片⑩ 教科書の名作
懇意にしている古本屋の均一を漁っていると、店主から「これ持ってる?」と1冊の本を見せられた。いや厳密にはこの日「持ってる?」と聞かれた本は10冊以上あったし、なにしろ全部100円で売ってくださるものだから片っ端から全部買うに決まっているのだが、今回はその1冊を起点にしてちょっと書いてみたい。
①浅見淵編『文芸副読本』(大観堂)
総ページ数137という薄手の冊子で、発行は昭和34(1959)年。戦前の本をメインに蒐めている僕からすれば、ぜんぜん新しい本である。巻頭の凡例を参照すると、〈早稲田高等学院の文芸の時間の演習用として、編纂したもの〉とのことで、ものすごくざっくり言えば国語の教科書ということらしい。
しかしこのラインナップが実に素晴らしいのだ。
・坪田譲治「コマ」
・川端康成「バッタと鈴虫」
・志賀直哉「真鶴」
・太宰治「黄金風景」
・堀辰雄「あいびき」
・芥川龍之介「父」
・永井龍男「胡桃割り」
・尾崎一雄「先生と私」
・内田百閒「百鬼園先生言行録」
・横光利一「蝿」
・葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」
・菊池寛「父帰る」
・森鴎外「佐橋甚五郎」
たとえば芥川「トロッコ」とか鴎外「高瀬舟」とかだったら教科書としてまだ普通な感じがするけれども、本書は有名作家でもちょっと渋めのチョイスが効いている印象である。
恥ずかしい話、僕が既に読んでいたのはこのうち半分程度。その半分とて内容をしっかり覚えているものは「セメント樽」くらいなものであったから、まあ単純に文豪のアンソロとして面白く読めるだろうと取り掛かってみた。
で、読み終わってみると、このアンソロジーは子供というか生徒にずいぶんと寄り添ったセレクトをしているなあという印象を抱く。
完全に共感しきれるかどうかはもちろん個人差があるけれども、若いころの過ちとか主人公が学生だったときの回想とか、少なくともこの本で授業を受けるであろう生徒たちが、思い描きやすい情景を切り取ったものが大半を占めているように感じられた。
もっとも、これが必ずしも正解かというとそうとも言えない。小説の魅力のひとつに、自分が体験しえないストーリーに触れることが挙げられるとするならば、本書の選定は生徒が触れる作品の幅を狭めてしまうことになるかもしれない。
他方、生徒の立場からすると、ある程度面白い読み物の方がよいという気持ちもある。いやまあ、教材である以上は必ずしも楽しい作品でなくてもいいだろうが、少なくともトラウマや嫌悪感を誘発しうる作品を読ませようとするのは、いくら文学史的に重要であったとしても無理がある。そういう意味でこのラインナップならば、文学の楽しさを味わうことは十分できるだろうと思う。
と、いう話題になると思いだす本がある。
②川島幸希『国語教科書の闇』(新潮新書)
帯文に〈「羅生門」「こころ」「舞姫」なぜ定番小説ばかりなのか?〉とある通り、本書は数多あるはずの近代文学作品の中から、どうして各社揃って画一的な選定をしてしまうのかということを探った本である。
川島氏は帯文の3作に「山月記」を加えて「定番小説四天王」と呼んでいるが、確かにこの4作は高校を卒業した人であればかなりの確率で触れたことがある作品群だろうと思う。(「こころ」のみ、教科書では抄録なので、教師の方針や生徒個人の熱意によっては全文読んでいない場合もあるけれども)
僕の当時の思い出から言うと、「羅生門」と「山月記」は面白く読んだが、「こころ」「舞姫」は良さが全く分からなかった。とりわけ「舞姫」は〈石炭をば早や積み果てつ。〉で始まる雅文体だから、内容に取り組む前にいちいち現代語訳をしてから読まなきゃいけない(宿題として訳を課された)のが億劫だったし、主人公豊太郎の行動にはドン引きだしと、これを読んで鴎外嫌いになる人が多いというのもうなずける。
川島氏はここで、ただでさえ読解力低下が叫ばれている高校生に、近代文学を専攻する大学生が読むような複雑で難しいテキストを読ませるのは適切ではないだろうと指摘している。僕もそう思う。
とはいえ僕としても、たかが高校生の身分で読んだときの印象が強すぎる。「羅生門」「山月記」については高校卒業後も何度か読んだが、「こころ」「舞姫」は1度も読み返していない。
これは良くないと思ったので、ひとまず「こころ」の方を読んでみることにした。
③夏目漱石『心』(岩波書店)
結論を言うと、とても面白かった。衝撃的なほどに。
漱石の作品のなかでも後期作ではあるから、「猫」とか「坊っちゃん」のように諧謔的な雰囲気ではないわけで、むかし読んだときはもっと暗くて陰鬱な印象を受けたものだった。が、今読んでみたら暗さはさほどでもなく感じられた。
年を経てもっと暗い作品をいくらも読んできたから相対的に読後感がよくなったのかもしれないが、いちばん大きいのは「今」読んだということだろうと思う。自分と境遇が近い主人公に感情移入するのは言うまでもないが、ここでいう「自分」は常に変化しているということである。
簡単に言うと、高校生の僕に「こころ」はあまりに早すぎたのだ。
というわけで、今の僕にとっての「こころ」は名作という評価に置き換わったのだが、しかし高校生に与えるのはどうなの、という考えは変わらなかった。
まあそういうハードな作品を半強制的に読んでおくことで読書耐性というか体力が高まるとか、漱石を1冊も読んだことがない大人にならないためにという理屈もわかるっちゃわかる。けれどもそれは文学がそこそこ好きな人間の意見に過ぎないわけで。
マジで活字を一切読まない生徒(意外といるものだ)に向け、いかにして興味深い授業をできるかということを悩みながら、それでも教員は前向きに仕事をしなくてはいけないのではないか。と、かつて教員を目指した身としては思うのである。
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