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空間を彫る(須田悦弘論)

 夏の原美術館でインスタレーション「此レハ飲水ニ非ズ」を見てから、木彫りの精密な草花を作る現代美術作家 須田悦弘の世界にすっかり引き込まれてしまった。その後も各地で須田作品を観た。まだ全作品を観てはいないが、とりあえずの須田悦弘論が筆者の中で形成されつつあるので、各作品の鑑賞とともに、以下、記録しておく。

1 時間の落差: 此レハ飲水ニ非ズ(2001年、原美術館)

 黒タイル貼りの古いトイレのような部屋の奥に、錆びた2本の配管が天井へ伸びており、そのうち1本の折れた途中からは本物のような椿が生えている。枝についている椿の花と、床に落ちた椿の花。水の気配は全くない。

 「これは飲み水にあらず」と告げられた鑑賞者は、かつて水が流れていた過去を想像する。その過去においては配水管に水が流れ、かすかな水の音すらし、椿も活き活きとしている。一方で、現実として目の前にある、乾いた沈黙と、床に落ちている椿の首からは、死の匂いすら漂ってくる。みずみずしい過去と乾いた現在の落差に、鑑賞者は激しい喪失感を味わう。

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(写真:アメカヒヨリカ

2 多重の対比: クレマチス/チューリップ

(1)クレマチス(2020年、さいたま国際芸術祭)

 展示会場は、かつて大宮区役所として使われていた建物。その暗い階段の途中に白いクレマチスが突然、しなやかに咲いている。花がこちらを向いていることをこんなに怖いと思うことはないだろう。そこはかとないこの恐怖感はどこから来るのか。

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(写真:筆者撮影)

(2)チューリップ(2020年、さいたま国際芸術祭)

 同じ会場の、別の暗い階段の天井に今度はチューリップが咲いている。全体を支えているのは根ではなく、葉の先である。鑑賞者は、花が根ではなく葉っぱで支えられていることの奇妙さ以上に、何か居心地の悪い不気味さを覚える。この不気味さはどこから来るのか。

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(写真:筆者撮影)

(3)恐怖と不気味さのモト

 「クレマチス」の恐怖感や、「チューリップ」の不気味さは、少なくとも3つの対比から来る。1つ目は、会場となっている古い役所独特の暗さと、その暗さに似つかわしくない花の明るさとの対比である。2つ目は、抜け殻のような旧区役所の持つ乾きと、その乾きに似つかわしくない花という概念の潤いとの対比である。3つ目は、数日しか持たない(概念としての)花の刹那性と、木彫りであることで半永久的にその姿を保つ永遠性との対比である。これら多重の対比により、鑑賞者は、あってはいけない場所に花以上の何かを見てしまったような恐怖や不気味さを味わうのである。

3 永遠の追求: 雑草(2002年、ベネッセハウス・ミュージアム)

 瀬戸内海に浮かぶ直島にあるベネッセハウス・ミュージアム。建築家・安藤忠雄による設計で、"瀬戸内海を望む高台に建ち、大きな開口部から島の自然を内部へと導き入れる構造"である。2階から1階へ降りる通路の壁に、この「雑草」は展示されている。先ほどまでの作品とは違い、下の写真を見ればわかるように、花のない、何の変哲もない草の形である。

s-2F作品

(写真:ベネッセアートサイト直島

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(「雑草」の手入れの様子。この壁の上方の溝に展示されている。写真:ベネッセアートサイト直島

 この「雑草」には遠くの窓からの間接光が降り注ぐが、建物の中にあるため雨が降り注ぐことはない。植物が生きるには、太陽光と水が不可欠である。鑑賞者は、この花のない「雑草」から、上で言及した喪失感や不気味さよりも、明るさの中で水を求めるように永遠を求める雑草の切実さを受け取る。

4 刹那と歴史: 碁会所(2006年、直島「家プロジェクト」)

「碁会所」という名称は、昔、碁を打つ場所として島の人々が集まっていたことに由来します。建物全体を作品空間として須田悦弘が手がけ、内部には 速水御舟の「名樹散椿」から着想を得てつくられた作品「椿」が展示されています。庭には本物の五色椿が植えられており、室内の須田の椿と対比的な効果をつくりだしています。

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(上記引用文と写真:ベネッセアートサイト直島

 この「碁会所」を覗くと、四畳半の四角い部屋に、計23個の椿が散らばっている。そのうち21個がばらばらとこちらを向いている。これまでに見てきた作品と異なり、葉や茎はなく花のみが首のように置いてある。

 「碁会所」には、葉や茎がないことで、花の刹那性が強調され、ここに島民の碁会所があったというエピソードを背景に、逆説的に土地の歴史の厚さが表出している。23という大きな素数は、ここに集った島民の数のかつてを示すのかもしれない。

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(写真:ART SETOUCHI

5 空間を彫り出す

 ここまで、みずみずしい過去と乾いた現在の落差から激しい喪失感を味わわせる「此レハ飲水ニ非ズ」、旧区役所における多重の対比により恐怖感や不気味さを醸し出す「クレマチス」と「チューリップ」、明るさの中で水を求めるように永遠を求める切実さの滲む「雑草」、花の刹那性で土地の歴史の厚みを表出させる「碁会所」を簡単に鑑賞してきた。

 これらの作品に共通するのは、展示場所が注意深く選ばれていることである。もしもこれら精密な木彫りの作品が、例えば日本庭園に飾られていたら、喪失感や恐怖感などは出ないだろう。例えば美術館の硝子張りに入れられていたら、上手な造花だくらいにしか思わず素通りするだろう。例えば花瓶に入れられて窓際に置いてあったら完璧な造花だろう(須田の掘り出す草花は繊細かつ精密で造花としてみても高いレベルにある)。

 須田の作品は、打ち捨てられたトイレ、旧い区役所の階段、通路の乾いた壁の片隅、碁会所のあった土地の畳の上など、水や光がなかったりしておよそ草花があることが期待されない場所に飾られて初めて、魅力的な美術作品になる。須田は、微小な草花だけを彫り出すのではなく、その草花の配置により周りの大きな空間も彫り出して作品にしていると言える。せいぜい数センチしかない作品で、周りの空間を彫り出せるのは、稀有な力である。

 須田の作品は、地域に根ざしたアートプロジェクトや芸術祭と相性が良い。例えばロダンの彫刻は美術館にあろうが、公園の真ん中に置かれようが、ロダンの彫刻である。一方で、須田の作品は、空間を彫り出すものなので、階段の途中や旧い建築物など特定の場所に必然性を持つ。これを裏返せば、須田の作品はどの美術館のどの展示室でも飾れるわけではないこととなる。

 原美術館は、2021年1月で閉館する。これに伴い所蔵の「此レハ飲水ニ非ズ」も移動を強いられる。同作品もまた、原美術館のあの部屋だからこその魅力があった。あの白い椿は、どこに移動し、次はどんな空間を彫り出すことになるのだろう。

 移動するのは椿だけでない。須田の作品は、どれもその作品(とその周りの空間)を見れば、一目で須田のものとわかるような"文体"がある。筆者は物書きなので文体という語を使ったが、独自の文体を持つのは誇るべきことであり、悩ましいことでもある。須田はこの文体を固める方向に移動していくのか、それとも打ち崩す方向に移動していくのか、その歩みから目が離せない。


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