少しずつ強く、マシになれている理由を知った
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか/三宅香帆」
本を全く読まなくなった時期がある。
ケータイを手にした。活字より漫画が読みたかった。本を読むことより「友達を作る」ことが存在意義だと強く固執していた。就職先で自身を忙殺した。理由はいくつもある。
読者再開のきっかけは6年前になろうとしている新型コロナによるパンデミックだった。
ライブ参戦、旅行等の外出の規制どころか仕事も制限された。出かける場所、機会は失くなり、仕事の制限と共に収入が激減したが時間は失われていない。このように考えを転換して自分自身と向き合う機会と捉えた。
やりたいこと、やりたくないことを振り分けた。実行したことのひとつが「本を読む」ことだった。
本書の題名に対して「ただ単に読書する時間がないから」と返答していたが、読み進めていくうちにその理由の本質、個人的な話で読書に魅入る理由、やりたくなかったことのひとつに「SNS」「ネサフ」を嫌った理由、そして年々不測の事態(所謂イレギュラーな事例)に冷静に対応できるようになってきていること、怒りや悲しみ、ヒステリーに陥る寸前、直後、陥ったとしても半時後に気付き俯瞰して自省していること、自身だけでなく他者を離れた位置からより観察できるようになってきている理由が発覚した。
これだ。と膝を打つ。
ノイズとは「歴史や他作品の文脈・想定していない展開」のことで三宅先生によれば、読書はノイズ『込み』の知を得ることで、情報(所謂ネット、SNS等)はノイズ『抜き」の知を得ることだそうだ(同書223頁より)
だから冒頭に述べた不測の事態(所謂イレギュラーな事例)に冷静に対応できるようになってきていること、怒りや悲しみ、ヒステリーに気付き俯瞰していること、自身だけでなく他者を離れた位置からより観察できるようになってきていること、同時に「SNS」「ネット」に入り浸ることに違和感を抱いていたのかと知る。もちろん「SNS」「ネット」を使うことが悪いと言うわけでなく、活用方法を上手く知れば素晴らしい技術だ。
ただそれだけに没入するというのは、自分も周囲も見えなくした。これは「SNS」「ネット」に限らない。趣味だってそうだ。
コロナ禍は実を言えば長年の趣味であるライブ参戦に疲れたことを受け容れて休んでいた時期でもあった(チケット落選続きというのもあるが)
そして「やりたいこと」のひとつは「落語に触れる」ことだった。没入することが怖くて手を付けずにいたが、没入していることに気付いて距離感を保つ修行として手を出したのも理由だった。
案の定没入して、この1ヶ月疲れていた。読書も疲れ気味になっておざなりになっていた。noteでの感想つづりも疲れ果ててこの1年放置していた。そこで思い切って休んで他の趣味(元々あったものだったり新たなものだったり)を織り交ぜた。疲れたら休止してほかのことに手を付けてそれに疲れたら他のことと繰り返していたらまた楽しめるようになっていた。
崎田ミナさんの言葉の通りだった。
04 Limited Sazabys「kitchen」にもある。
そして三宅先生も仰っていた。
もちろんこれは「趣味」だけに言えることではない。「仕事」だってそうだろう。
例えば、資格を活かした仕事だけを一生涯続けてもいいし続けなくてもいい。それを本業としても副業としてもいい。副業という「文脈」を得てそれを本業に活かす手もある。
資格に雁字搦めにならずに全く異なる分野に就いてもよいのだ。何よりも仕事は資格のみではない。資格は保険のようなものであり持っても持たなくてもいいし活かしてもいいし温存してもよいのだ。
家庭に、家族に、趣味に、友人との交流に、そして自分自身の生活に重向きを置いたっていい。働くことが好きでもいい。
ただしどれも「燃え尽きない」ことが大前提のことなのだ。
以前拝読した「<萌えすぎて>絶対忘れない!妄想古文」に引き続き三宅先生の洞察力、着眼点、多くの文献、取材、交流を網羅しての著書には平伏するばかりであり、今回の著作は先生の仰せの通り「働き方」の提言を示しているものでもあり、今後の人生をどう過ごすか生きるかを考えるきっかけにもなった。
それは先生の仰るように多くの文脈を受け容れられずとも存在自体を受容する知ることで、時代そして己自身の変化を知り受け容れることで「働きながら本が読める」ようになるのかもしれないと考えた。